アメデオ・モディリアーニ


プロフィール

生誕/死没

1884年~1920年

イタリア

代表作

赤毛の若い娘(ジャンヌ・エビュテルヌの肖像)

画像_アメデオ・モディリアーニ「赤毛の若い娘(ジャンヌ・エビュテルヌの肖像)」

ジャンヌ・エビュテルヌは、モディリアーニの内縁の妻であり、絵のモデルであり、画家でもあった女性です。

安楽椅子の上の裸婦

画像_アメデオ・モディリアーニ「安楽椅子の上の裸婦」

塗りは平面的でありながら、巧みな構成力によって美しい女性像を描き出しています。

子供とジプシー女

画像_アメデオ・モディリアーニ「子供とジプシー女」

ブルーに近いグレーの瞳が印象的ですね。

プロフィール

生まれや環境

ユダヤ系イタリア人の夫婦の末っ子としてリヴォルノという町に生まれたアメデオ・モディリアーニは、随分と早い時期に母親から芸術的な才能があるんじゃないか?と思われていたようです。

父親があちこち出かけっぱなしの人だったこともあり、モディリアーニは主に母親と母方の祖父によって育てられました。母親は毎日日記をつけるマメな人であり、その中に「もしかするとこの子は芸術家とは向いているのではないか?」とまだ幼い息子の将来を楽しみにしている記述があります。

モディリアーニに様々な世界を見せたのは主に祖父で、とても博識な人だったようです。

モディリアーニは、14歳の頃にはグリエルモ・ミケーリという風景画家のアトリエに入り、デッサンなどを学ぶようになります。

16歳の頃に結核にかかり、療養のためにイタリア各地を旅したモディリアーニは、そこで様々な過去の芸術と出会い吸収していきます。その後、病気を全快してから、ヴェネツィアの美術学校に入学して、ルネサンス美術(特にシエナ派と呼ばれる、ゴシック美術的要素の強い絵画)を研究するようになります。

その後、モディリアーニは当時の芸術の都であったフランスのパリへ移住しようと試みますが、金銭的な支援をしてくれていた叔父が亡くなった頃で一度はそれを諦めました。しかし、息子を育てずっと見てきた母親がお金を用意し、「いってらっしゃい」と後押ししました。

こうしてモディリアーニはパリへと赴いたのでした。

モディリアーニのように、フランス以外の国から芸術の都・パリ(特にパリのモンマルトルやモンパルナスといった地区)に集まって活動した様々な芸術家たちのことを、「エコール・ド・パリ」と言います。

エコール・ド・パリはあくまで他国からパリに出てきて活躍した画家たちというくくりに過ぎず、同じ流派に属していたりグループとして活動したわけではありません。

パリでの極貧生活

アメデオ・モディリアーニは、パリで画家のパブロ・ピカソやアンドレ・ドランや、詩人で美術批評家のギヨーム・アポリネールらと出会い、交流を深めます。

モディリアーニの周りの画家たちは、ほとんどの画家が保守的なサロンに反発する形で芸術活動をしていました。要するに新しい芸術の形を模索していたんですね。そのため、なかなか世間には受け入れられず、貧乏な生活をしている画家たちが多かったのでした。

モディリアーニも積極的に出展していましたが、なかなか知名度が上がらず、絵も売れませんでした。

アンリ・マティスらが既存のサロンに対抗する形で立ち上げたサロン・ドートンヌに出品したり、一番最初にモディリアーニの絵を買ってくれた人からの紹介でアンデパンダン展に出展したりもしましたが、新聞の片隅にその他大勢の画家と名前を列記される程度で、絵も大幅に値引きしてなんとか売れる、といった状況だったようです。

金銭的な余裕がないと体調の維持が困難になってきます。一時、彫刻の制作にのめり込んでいたモディリアーニでしたが、体力的な理由もあって断念しています。

また、貧乏であることは精神的な余裕も奪っていくのでしょう。モディリアーニについてはこのようなエピソードもあります。あるとき、喫茶店に入ったモディリアーニはカフェの客の似顔絵を描いては客に押し売りし、それで強引に得たお金でお酒を飲み歩いていたそうです。

当時の画家たちは、アルコールと貧乏による破滅的な生活をおこなっている者も少なくありませんでした。

モディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌの悲劇的な愛

モディリアーニがパリで廃れた極貧生活を送っている最中、ヨーロッパは第一次世界大戦へと突入していきました。モディリアーニの周りにも徴兵されていった人たちがいましたが、モディリアーニは不摂生などもあり身体が弱かったことから、徴兵を免れました。

絵も決して売れていたわけではありませんでしたが、なんとかポーランド人の画商と専属契約を結ぶことができ、絵を描き続けることができました。

(ちなみに、モディリアーニは生前最初で最後の個展を1917年に開きますが、裸婦を出展したことから警察に踏み込まれる自体となり、自ら撤収するという憂き目に遭いました。)

そういう画家生活を送る中で、ジャンヌ・エビュテルヌという女性と出会うことになります。

ジャンヌは、モディリアーニの絵のモデルであり、本人も絵描きでした。下の写真がジャンヌですが、とても美しい人ですね。

画像_ジャンヌ・エビュテルヌ写真

出会った当時、モディリアーニは32歳、ジャンヌは18歳でした。

出会って早い段階でお互い惹かれ合った彼らでしたが、すぐにジャンヌが子どもを身ごもり、長女を出産します。そのときまだ籍を入れていなかったので、入籍しようという話にはなっていたようです。

しかし、モディリアーニは長年のアルコールや薬物依存などの破滅的な生活の末、すっかり身体を弱らせていました。結局2人が知り合ってたった3年で、モディリアーニは結核性髄膜炎で亡くなってしまいます。享年35歳でした。

ジャンヌの家族はモディリアーニが亡くなった即日にジャンヌを連れ帰りましたが、モディリアーニを心底愛していたジャンヌは最愛の人を亡くしたことで錯乱状態になり、マンションの5階から飛び降りて自殺してしまったのでした。

それは、モディリアーニの死後たった2日の話でした。ジャンヌはモディリアーニの後を追うように21歳という短い人生を閉じたのでした。(なお、このときジャンヌのお腹の中にはモディリアーニとの2人目の子どもがいたようです。)

ジャンヌの家族は、「モディリアーニの所為でジャンヌが自殺した」と憤り、2人を同じ墓へ入れることを頑なに拒みましたが、10年後になってジャンヌの家族も2人の愛の深さを認め、ジャンヌの墓をモディリアーニの隣に埋葬することになりました。ジャンヌの墓碑には「究極の自己犠牲をも辞さぬほどに献身的な伴侶であった」と刻まれました。

なお、モディリアーニの凄絶な生活エピソードや、モディリアーヌとジャンヌの悲恋は伝説的な扱いを受け、2度映画の題材にもなりました。

現代の我々が「芸術家らしい」と感じる芸術家のイメージは、このアメデオ・モディリアーニという画家のイメージなのかもしれないです。

作風

長い顔と首で構成されたデザイン的な絵

モディリアーニの絵はほとんど、絵画という表現にしぼって活動を始めた1916年以降のもので、主に女性の肖像画、あるいは裸婦を描きました。

モディリアーニの絵の最大の特徴は、長い顔と長い首でしょう。そして絵にもよりますが、黒目を白目ごとぐちゃっと塗りつぶすような描き方をしているのも、特徴的ですね。代表作で挙げた「安楽椅子の上の裸婦」がややそんな感じですね。

こういう角度や配置を意識した構成的な絵を描くのは、彫刻制作に没頭していた時期に空間への意識を強くおこなったことが理由の一つとして挙げられるでしょう。

また、モディリアーニがサロン・ドートンヌへ出品したときに知り衝撃を受けたと言われる、ポール・セザンヌの存在も大きいかもしれません。セザンヌは非常に空間構成を意識した静物画や人物画を描いたことで、デザインの先駆けとも言われている画家です。

平坦な塗りによって身体をパーツとして扱う

これは先に書いた内容とややかぶると思いますが、モディリアーニの絵はどれもリアリテイーを出して描き上げる絵ではありません。塗りがとても平坦で、ともすれば子どもの落書きとも言われかねないですが、そこは彼の巧みな構成力によって、空間の中で塗りが絶妙なバランスで配置されています。

この空間構成的な美しさは、それに気付くだけの見る目が必要になるものなので、絵画を見慣れている人でないとなかなか良さが分からない部分があります。

私も昔はまったくモディリアーニの絵の良さが分からなかったのですが、デザインの勉強をするようになってから、モディリアーニの絵の絶妙なバランス感覚に気付くようになりました。

もちろん絵画を鑑賞するのに、見る目を無理して養う必要はありません。絵画は純粋に自分が良いと思ったものを楽しむべきものですから。

ただ、見るほど良さが分かってくるような絵画も事実あります。

モディリアーニの絵画が誰にとっても「噛めば噛むほど分かる絵画」だったかは定かではないですが、生前ほとんど良い値段で売れなかった彼の絵画は、彼が亡くなった後に評価されるようになり、現在ではちょっと絵画が好きな人であればみんな知っている有名な画家となりました。