エゴン・シーレ


プロフィール

生誕/死没

1890年~1918年

オーストリア=ハンガリー帝国(現在のオーストリア)

代表作

自画像

画像_エゴン・シーレ「自画像」

エゴン・シーレは数多く自画像を残した画家でもあります。どれも非常によく自身の特徴を捉えています。

家族

画像_エゴン・シーレ「家族」

シーレ最晩年の未完成作品。描かれている女性はシーレの妻・エーディトではないと言われています。

左ひざを折って座っている女性

画像_エゴン・シーレ「左ひざを折って座っている女性」

シーレは女性の絵を数多く描いています。特にコケティッシュな姿勢の女性が多く、中には性器まで露わにして描いたものもあります。

プロフィール

生まれや環境

エゴン・シーレは、オーストリア=ハンガリーにあるウィーン近郊の町に生まれました。シーレ家はオーストリアでは圧倒的に少数派だったプロテスタントのルター派のキリスト教徒の一族で、父親のアドルフは鉄道員でした。シーレ以外の兄弟はみんな女性で、姉が2人と妹が1人いたようです。

シーレは妹のゲルトルーデ(愛称、ゲルティ)に非常に強く執着していたようです。実の妹に執着する辺り、以前紹介したベルギー象徴主義の画家、フェルナン・クノップフと似ていますね。しかし、シーレは行き過ぎています。なんとゲルティと近親相姦の関係であったと言われています。

シーレは随分と早熟で、10代前半で既に学校の先生から才能を見抜かれていました。シーレが15歳のときに父が梅毒で亡くなり、彼は叔父に引き取られますが、学業には見向きもせず芸術に対して強い興味を持ち続けました。翌年には叔父の理解を得て、通常の学校へ進学せず、職人を育成する「ウィーン工芸学校」へと進学しました。

ウィーン工芸学校出身の大先輩には、シーレの後の師となるウィーン分離派の芸術家グスタフ・クリムトがいます。ただ、シーレはクリムトと違い、職工として独り立ちすることなく、より芸術を追究しようと更にウィーン美術アカデミーへ進学しました。

余談ですが、奇しくもシーレがさらっとウィーン美術アカデミーへ入学を決めた翌年と翌々年は、アドルフ・ヒトラーが同美術アカデミーの受験に立て続けに失敗していたようです。もしヒトラーが受かっていたらシーレの後輩として入学していただけでなく、きっと世界の歴史も大きく変わっていたでしょうね。

さまざま影響を受けつつ独自の道へ

シーレはウィーン美術アカデミーへ入学したものの、アカデミーの旧態依然とした芸術観に価値を見いだせず、クリムトに弟子入りします。クリムトは熱心に芸術を追究する若いシーレをいたく気に入り、金銭的にもあれこれと援助をしたようです。

エゴン・シーレの画家としての幅を広げることとなるきっかけが、そのクリムトからもたらされます。クリムトが開いた新しい芸術を切り開こうとしている画家たちの展示会に、フィンセント・ファン・ゴッホの絵が出展されていたのです。

シーレの生まれた年に亡くなったこの偉大な画家の作品に、シーレは大きな衝撃を受け、また、運命を感じました。シーレはゴッホの「向日葵」に強く感銘を受け、自身も同様に向日葵をモチーフにした作品を残しています。

他にも、エドヴァルド・ムンクやヤン・トーロップといった画家からも影響を受けているようです。

その後、より一層精力的に作品を制作したシーレでしたが、時はちょうど第一次世界大戦。結婚して3日しか経っていなかった24歳のシーレも、オーストリア=ハンガリー軍へ召集されました。ですが、彼が画家であることを明かしたことで、軍はシーレら芸術家を尊重し戦線へは送り出しませんでした。

シーレは捕虜収容所の看守を務めつつ、じっくりと作品のアイデアを練っていきました。大戦が終わりに近付いた頃、クリムトが開いた展示会に大戦中に練ったアイデアから制作した作品を数多く出展したところ、一気にシーレの作品に注目が集まり、仕事も舞い込むようになりました。

ずっと貧乏ながら絵を描き続けてきたシーレにとって、画家として念願の大きな一歩を踏んだわけですが、妻のエーディトが当時流行していたスペイン風邪に罹り、お腹にシーレの子を宿したまま亡くなってしまいます。

シーレも同じスペイン風邪に罹り、妻の家族に看護されましたが、甲斐なくエーディトの死の3日後に亡くなります。まだ28歳でした。

サイコパス?

エゴン・シーレが妹のゲルティと近親相姦関係になったことは最初に少し触れましたが、それ以外にも数多く問題行動があったようです。

父親を若いうちに亡くしたことは既に触れましたが、シーレは父親にも強い尊敬や愛情を抱いていました。ですがその一方で、母親のことはどう愛したら良いか分からなかったようです。

シーレの人生は女性関係によって成り立っていると言えるほど、数多くの性的な問題を起こしています。もしかするとそれは、母親を愛することが出来なかったり実の妹に手を出してしまったりしていたシーレの性質によるものだったのかもしれません。

まず女性関係の問題としては、逮捕歴があることです。

その事件があったのはシーレが20歳頃のことでした。当時シーレは、自身の絵の裸体モデルを務めていたヴァリ・ノイツェルという17歳の少女と恋人同士でした。シーレとヴァリはシーレの母方の故郷であるチェコのチェスキー・クルムロフで暮らし始めましたが、シーレはヴァリ以外にも多くの娼婦を裸体モデルとして家へ出入りさせたことで、町から追放されてしまいました。

その後、今度はウィーン近郊の町に居を構えて、また似たようなことをして町の人たちから煙たがられました。庭先にヌードモデルを立たせたり、下町の少女をナンパしてヌードモデルにしたり、欲求の赴くままにやっていたようです。

これくらいであれば、「まぁ芸術家だし…」と思えなくもないですが、ある日14歳の少女が「シーレの家で一晩過ごした」と警察に告げたことで、警察がシーレの逮捕に踏み切ります。

そのとき警察が踏み込んだシーレの家には、年端のいかない少女たちをモデルにした多くのヌードデッサンがありました。当時はシーレほど赤裸々にセクシュアルな絵を描く画家もいなかったものですから、裁判所は当然それらを「猥褻だ」と判断しました。結局シーレは24日間勾留されました。

シーレはこの件について、「家出少女に宿を貸しただけ」と言っていますが、実際どうだったのかは分かりません。

この事件の後ウィーンへ戻ったシーレは、通りを挟んで向かいに住んでいたエーディトという女性と知り合います。シーレはこともあろうか、それまでずっと付き合っていたヴァリとエーディトを天秤にかけます。(たぶん両方と関係を持っていたのでしょう。)

結局シーレは、社会的に認められる相手として、中産階級の職人の娘だったエーディトを結婚相手に選びます。

が、シーレは「2人ともと恋人みたいな関係でいた~い!」ととんでもないワガママを言い出し、当然ながら却下、特にヴァリは深い悲しみの中シーレの前から姿を消します。ヴァリはその後、従軍看護婦となりクロアチアへ派遣されるも、23歳という若さで病死してしまいます。本当にかわいそうですね。

一方のシーレは、エーディトの姉アデーレとも性的な関係を持ちました。姉妹両方をモデルにした絵も多くあるようです。

シーレには女性を強く惹きつける魅力があるのか、エーディトはこれまで書いたように奔放すぎる(奔放どころじゃない)シーレに愛想を尽かすことはありませんでした。

これまで述べてきた数々の行動から、私はエゴン・シーレがもしかするとサイコパスなのではないかと思っています。罪悪感というものを抱かず自然と反社会的な行為へ走ってしまいがちなのがサイコパスの特徴ですが、一方で表面的には自信家でエネルギッシュ等、非常に魅力的な人物であることが多いようです。

シーレは数多くの女性と関係を持ち、ナンパした子をヌードモデルにするような人間だったこともあり、魅力のある人物であっただろうと思います。

これらの点を踏まえると、サイコパスの特徴はシーレの性質と似ているように感じますが、どうでしょうか。あくまで都市伝説の域を出ないものですけどね。

なんにせよ、作品だけでなく人間としても独特な個性を放つシーレは、現代でもファンの多い芸術家です。シーレの、芸術家らしいパワーに溢れた刹那的で彗星のような人生は、1980年に「エゴン・シーレ」というタイトルで映画にもなりました。

作風

癖のある描線と曲がった人体

ひょうきんさすら感じる描線は非常に個性的だと思います。現代の芸術家、私の周りの画家たちにも、エゴン・シーレの影響を受けたような、独特な硬さのある線を描く画家がいますが、現代の画家たちも真似したくなるような、不思議と魅力的な線なんですよね。

そしてその線によって紡がれる、反ったり曲げたりする体幹、開いたり閉じたりする脚、絡めたり解いたりする腕…、それら全部が「エゴン・シーレらしさ」を形作っているでしょう。

コケティッシュで奔放なヌード

シーレは裸体に固執して数多くのヌードを描いていますが、モデルのポーズが当時としてはありえないほどに刺激的なものが多いです。股を大きく開いて性器を露わにした女性であったり、男女が性行為に及んでいる姿であったり、しばしばその過激さゆえに否定されることもあったようです。

ですが、挑発的で生々しく、鑑賞者をドキッとさせるコケティッシュな雰囲気が、シーレの絵の最大の魅力なのでしょう。