エル・グレコ


プロフィール

生誕/死没

1541年~1614年

クレタ島(現在のギリシャ、当時はヴェネツィア共和国の統治下)

代表作

聖衣剥奪

画像_エル・グレコ「聖衣剥奪」

イエス・キリストの伝統的な描き方のルールをいくつも破っていることから批判を受けた作品。

受胎告知(托身)

画像_エル・グレコ「受胎告知(托身)」

引き伸ばされた人体と大胆な構図が特徴的なエル・グレコらしさが表れている作品です。

無原罪の御宿り

画像_エル・グレコ「無原罪の御宿り」

こちらも「受胎告知(托身)」同様、独創的な構図となっています。

プロフィール

生まれや環境

私はこのようなWebサイトをやっている人間なのでもちろん数多くの西洋の画家を知っておりますが、クレタ島出身のギリシャ人画家で著名なのは、このエル・グレコただ一人ではないでしょうか。

そんなエル・グレコは本名を「ドメニコス・テオトコプーロス」と言います。ほぼスペインの画家と言っても良いほど、スペインを中心に活躍した画家です。ちなみに、「グレコ」はイタリア語で「ギリシャ人」のことを指し、そこにスペイン語の男性定冠詞「エル(el)」がついて、エル・グレコです。

(「よぉ、ギリシャ人!」って挨拶されることを考えるとすごい愛称ですよね…。しかし、それくらいヨーロッパ中で知られるようなギリシャ人の画家って当時は少なかったんでしょうね。)

エル・グレコは生まれた場所がクレタ島だったこともあり、作風は独特な変遷を経ています。もっとも最初の頃の作品はビザンティン美術の影響を色濃く受けており、同時代の西洋の画家たちとは対照的な、宗教性の強い平面的でリアリティーのない絵を描いていました。

20代前半には画家として独立を果たしており、また、その頃には独学でイタリアのルネサンス美術の手法を自身の作品に取り入れるようになったようです。より本格的にルネサンスの絵画を学んだのは1567年頃にイタリアのヴェネツィアへ渡ってからで、ビザンティン美術とは画材や技法が大きく違うため、エル・グレコは非常に多くのことを貪欲に習得していったようです。それは彩色の仕方から油彩の使い方、遠近法や解剖学など、多岐にわたりました。

また、エル・グレコはヴェネツィアでアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿が開いていたサロンと接点を持つようになり、そこでも多くのことを吸収するとともに、ファルネーゼ枢機卿が立てようとしていた宮殿「パラッツォ・ファルネーゼ」の装飾にも参加したと言われています。ただ、理由は分かりませんが、エル・グレコはあるとき突然ファルネーゼ枢機卿からクビにされてしまったようで、「ちょ、ちょっと待ってよ!どーゆーこと!?」とファルネーゼ枢機卿に送った嘆願の手紙が見つかっています。(残念ながら、読んですらもらえなかったみたいですが…。)

エル・グレコは30歳までには既に親方として工房を持つレベルの画家ではあったようで、個人の顧客向けに肖像画や小型の宗教画を描くことで、画業を営んでいました。その頃、絵画の主流は徐々にヴェネツィアからローマへと移りつつありました。他の画家がそうしたように、エル・グレコもローマへと移動します。

イタリア時代のエル・グレコは、なかなかに貧乏な画家生活を送っていたようで、よく絵に対する報酬がらみの金銭トラブルなどが絶えなかったようです。

(とはいえ、スペインに行ってもさまざまな訴訟沙汰が多くあったエル・グレコなので、きっと彼自身の性質的なものもあるのではないかと思いますがね…。笑)

エル・グレコはローマを拠点に活動した後、勉強のためにさらにイタリア各地を回り、最終的にはスペインへと渡ります。

スペイン入りしたエル・グレコ

エル・グレコがスペイン入りしたのは40歳になるより前だったようですが、なぜスペインへ行ったのかは正確には分かっておりません。が、スペインへ移った理由の一つと考えられている出来事がありました。

芸術を復興したルネサンス美術から、ルネサンスの巨匠たちの模倣に走るマニエリスムへ変化していく過渡期だった当時、ローマでも当然、「ルネサンス美術マジやばい!ミケランジェロとかマジ神!」という風潮がありました。特にミケランジェロについては、1564年まで存命だったこともあり、つい数年前までヨーロッパで「生ける伝説」と扱いされていたわけです。亡くなった後もその名声は衰えるどころか、奉られるレベルでした。そのどう考えてもアウェーのローマで、エル・グレコは「ミケランジェロ、別にたいしたことなくね?デッサンはうまいけどさ、デッサン”は”」的な発言をしたことで大炎上。ローマにいられなくなったと言われています。

さて、そんなこんなでスペインへ移ったエル・グレコでしたが、当時のスペインは画家にとって決して恵まれた環境ではありませんでした。

確かに当時のスペインは、レコンキスタ(イベリア半島再征服運動のこと)でイスラム勢力から土地を取り返した歓喜に湧いていたり、コロンブスによるアメリカ海域の大航海がおこなわれたり、大帝国を築いた神聖ローマ皇帝としても名高いカール5世がスペイン国王に就いていたり、どんどん国力を付けて栄えだした頃でしたが、当時のスペインは芸術家たちの活動をアカデミックな活動であると捉えておらず、庇護する文化がありませんでした。

そのため、カール5世の息子のフェリペ2世がスペイン国王に就任した後も、芸術家を支援はしたものの薄給な上、社会的にも認められていなかったそうです。

炎上するわ、モメるわ…、血気盛んなエル・グレコ

ローマでミケランジェロを酷評して炎上した話は先ほど触れましたが、エル・グレコのモメっぷりはスペインへ渡ってからも相変わらずでした。

スペインは画家の地位がイタリアのように庇護されていなかったので、ちょっとでもツッコミどころがあると発注側は平気で報酬を踏み倒そうとしてきたことがあったそうです。その上、国王らも画家を守ってくれるわけではありません。

もめ事エピソードの一つに、こんなものがあります。

エル・グレコが代表作で挙げた「聖衣剥奪」を描いて納めたとき、発注側であった「サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院」は一度その作品を受け入れた上で、「十字架に架けられる前のイエス・キリストはこんな鮮やかな服着ていません~」「なんで特別なはずのイエスの頭が群衆より低い位置に描かれているんですか~」などとぶちぶち言い始め、まさにそれを理由に報酬の支払いを踏み倒そうとしたのでした。

しかし、エル・グレコも負けていません。イエス・キリストが生まれてからのことが書かれている新約聖書の原典は、実はギリシャ語で書かれており、研究熱心なエル・グレコは修道院の聖職者たちよりも自分の方がきちんと理解できているという自負がありました。

それゆえ、訴訟沙汰に発展してバトルを繰り広げました。…が、修道院側から「異端審問にかけるぞ!」と脅され、やむなく取り下げることとなりました。一応(修道院側もすごいですよね、都合が悪い解釈はだいたい異端扱いなわけですから…。)

他にも、カリダード施療院(施療院とは貧しい人々を対象とした慈恵病院)と契約を結んで、施療院の祭壇衝立の制作をおこなった際は、完成後に施療院から評価された金額が安いとエル・グレコはいちゃもんをつけました。施療院側も「その金額を要求するなら…」と修正の注文をつけ、お互いの妥協点を探り、最終的には決着がつきました。

このようにローマでは炎上、スペインでも注文主と戦っていたエル・グレコは、ずっと暮らしていたトレドの町で73歳の生涯を閉じました。

作風

賛否両論が巻き起こった作品たち

前述したように、よく注文主と争っていたエル・グレコに対して、同時代の知識人で画家のフランシスコ・パチェーコは、「辛辣な言葉を吐く優れた哲人」と評しました。が、その一方でエル・グレコの絵については「荒っぽいし色合いもばらばら」と厳しく評価しています。

実際私も初めてエル・グレコの絵を鑑賞したときは、「ヘタウマ…?」と思うほど荒々しい筆致で印象に残ったことをよく覚えています。ちなみにエル・グレコの作品の本物を初めて見たのは、岡山県倉敷市にある大原美術館でした。お近くの方は是非行ってみてください。

さて、そんなエル・グレコですが、当時賛否両論を呼んだのは、描き方以上に宗教画でありながら果敢にカトリック教会のタブーに挑戦していたことからでした。もちろん、エル・グレコはただのパンク精神でそんなことをやったわけではなく、読書家で勤勉だった彼なりにキリスト教を徹底的に研究した結果、スタンダードな構図を崩したり、描く人物を変えたり、色合いを変えたりしたのです。

またアカデミックに絵画を追究するあまりに、非常に小難しく、同時代の知識人たちだけが楽しめる絵になってしまっていたことも、エル・グレコに対して低い評価が下る一因だったと思います。

ですが、図像学の知識もなくキリスト教国でもない、現代の日本人である私たちが見てもダイナミックな構図と鮮やかで陰影の強い描き方をしているエル・グレコ作品を楽しめるわけですから、絵画ってそうやって感覚で楽しめれば充分だと思うんですよねぇ。

ピカソらによって発掘された前衛性

エル・グレコだけでなくマニエリスムの画家たちは、ルネサンス美術バロック美術という大きな西洋絵画史の潮流のちょうど狭間の時代だったこともあり、多くがずっと忘れ去られていました。

ですが、実はマニエリスム期の画家たちの中には、個人的な様式を突き詰めて他に類を見ないほどの個性を発揮した画家たちもいたのです。ジュゼッペ・アルチンボルドなどもそうですね。

それらの画家を再評価し世に出していったのは、絵画の世界に革命をもたらし歴史に名を残すこととなった近代の画家たちでした。パブロ・ピカソはまさにその1人で、旧態依然とした芸術アカデミーに反発していたピカソらは、スペインが1898年に米西戦争でスペインが敗れたことで、「これは芸術に対してずっと支配的だった芸術アカデミーに一矢報いるチャンスだ!」と考えました。

そこでピカソらは、スペイン絵画史の主流の画家としては忘れ去られた存在であったものの、当時としては非常に前衛的で挑戦的な作品を残したエル・グレコを再評価し、世の中に広めていったのでした。

作品だけ見て「あ、これエル・グレコだね…」と当てるコツ

「作風」の段なので、作品についてももうちょっと触れましょうか。

個人的な感想ですが、確かにピカソが感じたような前衛性を、現代の私たちでも感じられるように思いますね。「前衛的」というのは時代を先取ったようなとがった感じのものを指しますが、エル・グレコの作品からもそれを感じます。というのも、バロック美術特有の明暗が強い感じや、劇的な場面演出を作品の端々から感じ取れるからです。

特に人体のぬ~っと伸びた感じはマニエリスム的なのに対して、光の明暗(例えば人物の身体の影になっている部分と光が当たっている部分の対比)はバロック美術の趣があります。

さて、ではこのパラグラフの本題に入りましょう。

やはり「作品から画家を当てられたらかっこいい」という思いはみなさんあると思うんですよね。なので、先述したもの以外のエル・グレコらしいポイントをもう1つ紹介しましょう。(これもまた個人的な印象ですが。)

実は、エル・グレコが後期に描いた宗教画はかなりの割合で「天を見上げる人物」が描かれています。そのちょっと小首をかしげつつ上目遣いで天を仰ぐ人物像は、とてもエル・グレコらしい描き方だと思いますね。

今回挙げた代表作でも全てに「天を仰ぐ人物」が描かれています。例えば、「聖衣剥奪」であれば中央に描かれたイエス・キリストがそうですね。「受胎告知(托身)」では告知を受ける聖母マリアが上目遣いで天を見上げています。「無原罪の御宿り」でも同様にマリアが天を仰いでいますね。(ただ「無原罪の御宿り」は元々見上げるように描かれることが多い画題ですが。)

私は作品をパッと見て「あ、これエル・グレコの作品だな~」と分かることが多いのですが、実は小首をかしげながら天を仰ぐ人物を、エル・グレコ作の決定打にしています。