ギュスターヴ・クールベ


プロフィール

生誕/死没

1819年~1877年

フランス

代表作

オルナンの埋葬

画像_ギュスターヴ・クールベ「オルナンの埋葬」

日本では「オルナンの埋葬」とだけ呼ばれているこの絵画ですが、原題を忠実に訳すと「オルナンの埋葬に関する歴史画」となります。これまでは歴史画といえば記録として残っている歴史上の事件やシーンに権力があって高貴な人物を理想化して描くのが通例でしたが、その慣習に対するクールベの挑戦心が見て取れます。

画家のアトリエ

画像_ギュスターヴ・クールベ「画家のアトリエ」

原題は「私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意」。寓意というのはたとえば愛だとか平和だとかの抽象的な概念に物質的な姿を与えて絵として表現することを言います。ですが、クールベはこの絵の中で、そのような抽象的なものを描いていません。

石割人夫

画像_ギュスターヴ・クールベ「石割人夫」

第二次世界大戦で焼失してしまった作品。この作品も含めて、労働者の姿をありのまま描いた作品を数多く残したことから、「社会主義的だ!」と批判されることもあったようです。

プロフィール

生まれや環境

スイスとの国境に近いフランスのオルナンという町に生まれたクールベは、そこの裕福な地主家の子でした。

母親は類まれなる美人だったようで、クールベ本人もその容貌を受け継いでいたようです。(彼がたくさん描いた自画像を見ている限り、とてもセクシーな目元をもった男性だったようですね。)

10代の頃からデッサンなどは習っていたようですが、クールベの父親は彼を法律家にしようと考えていたようで、彼もその希望のとおりにソルボンヌ大学の法律部に入学をしました。ですが、結局クールベ自身はその傍らでアカデミー・スイスに通い、画家になりたい夢を追いかけました。

クールベの画家としてのデビューは25歳の頃で、それは当時の画家としては非常に遅いデビューだったようです。

その後、いくつか作品を発表してはサロンで入選するなどしていましたが、1851年に代表作「オルナンの埋葬」を発表したところ、批判を浴びます。歴史画として発表したこの作品が、当時の歴史画のセオリーを覆すようなものだったからでした。

この作品は、オルナンという小さな町の葬式の模様を描いた作品ですが、描かれているのは全て町の人で、英雄でもなんでもないです。それが批判を浴びる原因となりました。

その後もクールベは、同じく挑戦的な作品「画家のアトリエ」を作成し、第2回パリ万国博覧会に「画家のアトリエ」と「オルナンの埋葬」を満を持して出品しようとしたところ、この二つの大作のみ落選してしまいました。

既存の芸術の潮流に対する反骨心が旺盛だったクールベは、なんと自分の後援者から資金を出してもらい、万博会場にすぐ近くに小屋を建てて、「ギュスターヴ・クールベ作品展」をやっちゃいました。いや~、すごいです。「入場料1フラン」という札を立てていたそうです。

そんなアグレッシブに攻めるクールベでしたが、フランスとプロイセン王国の戦争によってとんでもない憂き目に遭います。

パリ市民は、プロイセンとの戦争で皇帝であったナポレオン3世自身が捕虜になった上、プロイセンに侵攻されてパリまで攻撃されたことを受けて、「自分たちの市の安定は自分たちで作ろう!」と蜂起しました。それが、パリ・コミューンを結成に繋がります。

クールベは、そのパリ・コミューンの「コミューン美術委員会議長」を努めていたこともあり、ヴェルサイユ政府軍によってパリ・コミューンが鎮圧された後、反乱に加担した罪で逮捕されて莫大な費用の支払いを要求されてしまいます。(ですが、本当は冤罪だったようです。)

やむを得ずスイスへ亡命したクールベでしたが、悲しいことに亡命先から祖国へ帰ることなく、58歳の生涯を閉じます。

名言

写実主義の画家として名を馳せた(というよりかは、既存の芸術に立ち向かった)ギュスターヴ・クールベでしたが、彼のやっていることを端的に表わしている素晴らしい名言があります。

それが、「わたしに天使を描けというなら、天使を見せてくれ」という言葉です。

クールベが活躍した当時、帝政下にあったフランスでは規範に則ったセオリーどおりの絵画ばかりが評価される傾向がありました。

その中でクールベは労働者や町の人たちなど、自分の生きている中で触れた事物の目撃者として、絵筆をふるい続けたのでしょう。

まさにこの現実に起こっていること、現実に存在するものだけをこだわって描き続けた、写実主義の大家の発するに足る名言です。

作風

芸術のスタンダードに対する反発

代表作のキャプション部分にも結構書いたことですが、クールベはとにかく既存の芸術に対して挑戦的な態度をとりつづけた芸術家でした。

クールベの二つの大作「オルナンの埋葬」と「画家のアトリエ」は、それぞれ歴史画、寓意画として発表したものです。

にも関わらず、それまでの芸術の規範に則らない形で作品を発表しています。

例えば「オルナンの埋葬」は、町の人たちが町の人たちの葬儀に参列する様子を描いたものですが、そこに歴史画に必須の英雄や権力者の姿はありません。当時、芸術の良し悪しを評価するのは、そういった権力者たち、及び、権力者たちに加担する人々だったので、当然のように批判を受けました。

「画家のアトリエ」も、寓意画として描かれるべきである「愛」や「平和」といった抽象的な概念をただ擬人化することはせず、実在の人物ばかりを描き、そこに、「民衆」、「悲惨」、「貧困」、「富」、「搾取者」、「被搾取者」、「死によって生きる人々」といった社会の状況に合った寓意を当てはめていったようです。そういう意味では、オルナンの埋葬同様、こちらも「寓意画」に対する挑戦的な試みでした。

写真に真っ向勝負

これまで述べてきたとおり、芸術のスタンダードにことごとく反発してきた反骨心旺盛な画家、クールベ。

ですが、彼が本当に負けじと闘っていたのは、実は既存の芸術に対してではなく、写真という新しい技術に対してだったのではないか、という説もあります。

クールベが徹底した写実にこだわり抜いたのも、写真と真っ向勝負をするためだったのかもしれません。

その証拠、というわけではないですが、彼は下絵を描くのに積極的に写真を取り入れていました。そして当時の写真が左右反転で写ることから、わざわざその写真を反転させて被写体を写っていたときの状態にして描いていたというのですから、その徹底ぶりが分かるかと思います。