ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー


プロフィール

生誕/死没

1834年~1903年

アメリカ(活躍をしたのはイギリスとフランス)

代表作

バラと銀:陶磁の国の姫君

画像_ジェームズ・マクニール・ホイッスラー「バラと銀:陶磁の国の姫君」

色濃くジャポニスムの影響が見てとれる作品。ホイッスラーは西洋絵画の歴史の中で、もっとも日本に魅せられた画家の1人です。

灰色と黒のアレンジメント – 母の肖像

画像_ジェームズ・マクニール・ホイッスラー「灰色と黒のアレンジメント - 母の肖像」

横向きの人物画ですが、極めて緻密に画面や色彩の構成が練られている作品です。モデルはホイッスラーが愛してやまなかった彼の母親のアンナです。

青と金のノクターン – オールド・バターシ―・ブリッジ

画像_ジェームズ・マクニール・ホイッスラー「青と金のノクターン - オールド・バターシ―・ブリッジ」

ノクターンシリーズと呼ばれるホイッスラーの傑作の1つ。頻繁に作品名に音楽用語を入れたホイッスラーらしい、抽象性の高い作品です。

プロフィール

生まれや環境

アメリカのマサチューセッツ州のローウェルという町に生まれたジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー。

10代のうちは、土木技師であった父の仕事の関係でロシアで生活を送ったり、イギリスのロンドンなどで生活をしたり、またアメリカへ戻って陸軍の士官学校へ入学したり、地形図の銅版画工をしたり、転々としながら過ごします。その後、20歳を迎えた頃にはパリで住み始めたようです。

パリへ行ってからのホイッスラーは貪欲に先進的な画家たちから学びました。(そのうちの1人は写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベでした。)また、アンリ・ファンタン=ラトゥールらと「三人会」という芸術家グループを作り、パリでアトリエを構えます。

その後、ホイッスラーはロンドンにも進出。こちらでもアトリエを構えます。また、ちょうどこの頃、ホイッスラーはラファエル前派の創始者であるロセッティ兄妹と出会います。ホイッスラーは様々な画家たちの刺激を受けながら順調に制作を続け、1860年からはロンドンのロイヤル・アカデミーに出品し始めます。

近代絵画のターニングポイント「落選展」

1863年に開催された「落選展」は、近代絵画への重要なターニングポイントになっている展覧会でした。

「落選」などと付いているわけですので、まさにそのとおり、フランスのサロンで落選した絵画のみを集めた展示です。これは元々フランスのサロンではおこなわれていたことでしたが、1863年は特別な落選展だったがゆえに絵画史上のターニングポイントになったのです。

1863年は、フランスが国として後援をしておきながら、5000点の応募に対して3000点以上の絵画がサロンで落選したことを受け、芸術家たちが抗議したのでした。芸術家たちの不満が大きくなったことを受けて、当時フランスを治めていた皇帝ナポレオンも「ユー、文句あるなら落選展出しちゃいなヨ」となったわけです。

落選展自体は当然、パリの芸術アカデミーの公式展覧会であるサロンと比べれば全然規模の小さいものでしたが、落選展にはその後の絵画史を切り開いていく多くの画家たちが出展しておりました。「3000点以上の絵画がサロンで落選した」と先ほども書きましたが、既に絵画の新時代の機運は熟していたのでしょう、評論家たちや大衆の間でも「こ、れは…!もしかすると新しい時代の到来…!?」と感じた人はそれなりにいたようです。

なお、このときの落選展に出展していた画家の筆頭は、印象派の画家たちの目標となっていたエドゥアール・マネでした。他にも印象主義の中心的画家であったカミーユ・ピサロ、ホイッスラーと「三人会」を組んだアンリ・ファンタン=ラトゥールなども出展しています。

そして、今回ご紹介しているジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーも、この1863年の落選展で「白のシンフォニー第1番 – 白の少女」という作品を出展しました。代表作には挙げていませんが、「白のシンフォニー第1番 – 白の少女」は、当時のホイッスラーの恋人であったジョアンナ・ヒファーナンをモデルとして描いています。

この作品を経てホイッスラーは、自身の作品のアイデンティティーを見いだしたのでしょう。以後、モチーフを客観的に描くことや内面性を描くことよりも、色彩の形のもっとも絶妙なバランスを探して構成することを重要視するスタイルをどんどん出していきます。

ホイッスラーはその後、イギリス美術家協会会長に任命されるなど、アメリカ人でありながらイギリスを代表する画家として活躍します。そして、1903年にロンドンで亡くなります。

東洋大好き!日本大好き!

色や形の構成に並々ならぬ情熱を注いでいたホイッスラー。1878年のパリ万国博覧会で紹介され、西洋の芸術家たちの興味を集めていた「東洋美術」に対しても、貪欲に興味を示します。

まさにこの時期に描かれた絵画が、代表作に挙げた「バラと銀:陶磁の国の姫君」でした。本当は「白のシンフォニー第1番 – 白の少女」を代表作として挙げようかと思ったのですが、日本人として、日本に興味を示してくれたことが嬉しかったので、こちらを紹介しました。

ホイッスラーだけでなく、印象派の画家たちにも日本文化の影響は見られ、クロード・モネらも着物を着た女を描くなど大きなブームとなりました。このブームを一般的に「ジャポニスム」と言います。

作風

音楽用語を使う詩的な作品タイトル

ホイッスラーは作品名にも強いこだわりが見られます。例えば、夜想曲という意味である「ノクターン」であったり、編曲という意味の「アレンジメント」や、交響曲を意味する「シンフォニー」…、これら音楽用語を作品名に入れるのがホイッスラーの特徴です。

これは、ホイッスラーが絵を描くことを音楽を奏でることのように捉えているということでもあります。ホイッスラーがモチーフをそのまま描きだそうとせず、色や形などの構成によってリズムや流れを生みだす作品を作っていることは、先ほどから述べているとおりですが、このデザイン的で洗練されたおしゃれな感じの所為で、ホイッスラーはよく批評家たちの口撃の的となりました。

ホイッスラーが戦った批評家の1人として、ラファエル前派の活動を後押ししていたジョン・ラスキンという人物がいます。ホイッスラーとラスキンは訴訟沙汰にまで発展するバトルを繰り広げたのですが、発端はホイッスラーが発表した「黒と金色のノクターン – 落下する花火」という作品について、ラスキンが「絵具ぶちまけたみたいだな!」と酷評したことでした。

名誉毀損で訴えた泥沼の法廷闘争は、ホイッスラーの勝訴によって幕切れとなります。が、多額の訴訟費用を払うために、ホイッスラーは自分の家を売却したそうです。何もそこまでしなくとも…。

けれども、そこまでしてまで戦い抜いたのには、自分の芸術表現に強い誇りがあったからこそだと思います。

細部までこだわるデザインセンス

ホイッスラーの作品名の付け方へのこだわりはこれまで書いたとおりですが、ホイッスラーは作品の展示の仕方も独自にこだわりがありました。

ホイッスラーは、作品同士をある程度の距離を開けて展示をしたのです。…みなさん「あれ?」と思われたでしょうが、実は当時、作品同士をびっちり詰めて展示するのが普通でした。ですが、それが彼の美意識に反するものだったようで、ホイッスラーは意図的に作品同士を離して、自分の作品を展示するにふさわしい空間を自ら創りだしました。

芸術表現へのこだわり、作品の見せ方へのこだわり、作品の呼び名のこだわり、この細部までこだわる感じがとてもデザイナー的だな、と私は思います。このホイッスラーの徹底した美学が、彼の作品の独自性を生み出していると言っても過言ではないでしょう。

ラファエル前派でも印象主義でもない

ホイッスラーは多くの同時代の画家から学んだ上で、独自の芸術表現を切り開いた画家です。まれに印象主義としてくくられてしまうことがありますが、屋外の明るい光の表現にこだわった印象主義の画家たちの一方で、ホイッスラはーはそれが外であろうと中であろうと、日中であろうと夜であろうと、とにかく芸術的に色や形を置くことにこだわっており、やはり一線を画しています。

ラファエル前派を推していた批評家のジョン・ラスキンとは法廷バトルを繰り広げましたが、ホイッスラーはラファエル前派の画家たちからも強い影響を受けています。この記事では画像を用意しておりませんが、「白のシンフォニー第1番 – 白の少女」なんかは、人物の描き方や配置の仕方がラファエル前派的だと思います。

ですが、やはりホイッスラーはラファエル前派とは決定的に違います。ラファエル前派はラファエロ以前に芸術の真髄を見出し、極めて厳格に理想を掲げて活動した一派ですが、ホイッスラーはモチーフの意義には大きなこだわりを見せていません。あえて言うなら、デザイン的な画面の構成の仕方に、ラファエル前派との共通点を見いだせますが、それもその一点においてのみです。

ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーという画家は、どこまでも「美しさ」にこだわりました。

美的であること。それは、目まぐるしい時代の変化や様々な主張や主義を唱える人々に流されず、ホイッスラーの眼前を照らし続けた一筋の光だったのかもしれません。