ジャン=フランソワ・ミレー


プロフィール

生誕/死没

1814年~1875年

フランス

代表作

落穂拾い

画像_ジャン=フランソワ・ミレー「落穂拾い」

日本人であれば必ず見たことがある、と言ってもいいほど著名な絵画ですね。

種まく人

画像_ジャン=フランソワ・ミレー「種まく人」

力強く種まきをする農民の姿が描かれています。

晩鐘

画像_ジャン=フランソワ・ミレー「晩鐘」

1日の労働を終え、教会の鐘を聞きながら祈りを捧げる敬虔な農民の姿です。

プロフィール

生まれや環境

ジャン=フランソワ・ミレーは、フランス北西のノルマンディー地方にあるグリュシーという村に、農家の8人兄弟の長男として生まれます。典型的な田舎の敬虔なクリスチャンの素朴な両親のもとで育ったミレーは、幼い頃から農作業を手伝っては聖書を読んだり、絵を描いたりして過ごしました。

19歳頃から絵の修業を始め、22歳にパリの美術学校へ奨学金を得て入学。当時のアカデミズム絵画(国から評価された正当な絵画です)の巨匠、ポール・ドラローシュに教わっていたようです。ですが、アカデミックな芸術の教育に違和感を覚えたミレーは、2年ほどで自主退学してしまいます。

学校を辞めてしまったミレーはなかなかサロンで作品を評価されず、26歳でようやく初入選します。この頃のミレーは奨学金も打ち切られてしまい、なんとか正統派の画家として食べていくために四苦八苦していました。生活のために、当時の流行に合わせて裸体画を描いて売って生活をしていました。このときに、美術商の店先にかけてあったミレーの絵を見た道行く人が「このミレーって画家は、いつも裸体画ばかり描いている品のない画家さ」と噂されたことで、それ以後裸体画を描かなくなったという逸話があります。

この逸話が事実だったかどうかはさておき、田舎育ちの純朴な青年は「俺はいったい何をしているんだ…?」と気付いてしまったわけです。現代に生きる我々も、生涯に一度や二度はこういった我に返る瞬間があるのではないでしょうか。(私もありました。笑)そういうプロセスを経て、私たちは自分が本当に得たいものやありたい姿に気付かされるのでしょう。

話を戻しますが、遅咲きながらサロンに一度入選してようやく足がかりつかめるか…!と思ったミレーでしたが、なんとその後3年連続でサロンに落選。さらに、不幸は重なるようにしてミレーへ降りかかりました。元々身体の弱かった妻と結婚3年目で死別してしまったのです。

悲しみに暮れたミレーは故郷へ帰りますが、そこで後に2人目の妻となるカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性と出会います。周りから関係を認めてもらえなかった2人は「えーい!」と思い切って駆け落ちしてパリへ出てきてしまいました。

貧乏でしたが、カトリーヌは献身的にミレーを支えました。ミレーもそれを励みに制作を続けます。そしてついに、1848年の無鑑査で開催されたサロンで「小麦をふるう人」という作品が大絶賛され、政府によってお買い上げとなったのです。

バルビゾン村への移住

ジャン=フランソワ・ミレーがサロンで「小麦をふるう人」が絶賛された頃、パリではコレラという感染症が大流行していました。ミレーとカトリーヌはコレラが流行したパリから脱し、パリから南へ行くこと60kmほどのところにあるフォンテーヌブローの森のほとりの「バルビゾン村」へ移住しました。

バルビゾンに住んでいる芸術家はミレーだけでなく、テオドール・ルソーやカミーユ・コローらもバルビゾンに移住しました。穏やかで素朴なこの村で生活し、農民や自然を描いた画家たちのことをバルビゾン派と言います。ミレーはこのバルビゾン派を代表する画家です。

ミレーはバルビゾン村で農業をしながら絵を描き続けました。バルビゾンにはミレーが本当に描きたかったものがありました。それは、ミレー自身のルーツでもある農家の姿であったり、貧しくも敬虔にたくましく生きる農民たちの姿であったのでしょう。

40代も後半に差し掛かった頃、ミレーの描くリアリティーある農民たちの生きる姿が、アメリカで大ヒットします。ミレーが世界中で絶賛されるような画家になったのは、間違いなくアメリカで絶賛されたことが一因でしょう。

1867年にはパリ万国博覧会にも出展され、ここでも大絶賛されたようです。こうしてミレーは長い間の苦労を経て晩年になって大成したのでした。

そんなミレーですが、60歳で亡くなるまでバルビゾンで絵を描き続け、家族に看取られて亡くなりました。

作風

ほとんどがバルビゾン移住後の絵画

ジャン=フランソワ・ミレーの大作は、ほとんどがバルビゾン村へ移住してから描かれたものでした。きっと田舎育ちのミレーには水を得た魚のような状態だったのでしょう。

ミレーの描く農民たちの姿は、当時の農民たちの風俗史料としても申し分ないほどに、リアルに描かれています。

決して肥沃とはいえない土地、黙々と作業に没頭する農民たち、彩度を抑え独特の重さをかもしだす絵面。何の脚色もないところからも、あるがままに描こうとするミレーの姿勢が見てとれます。

「彩度を抑え」と言いましたが、実際ミレーの絵では、褪せた自然の色が多く使われている印象ですね。中には明るく描かれたものもありますが、多くは緑や茶といった大地の色を織り交ぜた静けさの漂う絵です。

この「静けさ」というのも、町の喧噪や人々の談笑が聴こえない、という意味での静けさです。あるのは、風が草を薙ぐ音、虫や鳥の声、農作業をする人々の衣擦れの音…、そういった音だけでしょう。

アメリカだけじゃない!ゴッホも日本人も虜になったミレー

ミレーがアメリカで絶賛された話は先に書きましたが、ミレーは後世の人々にも大きな影響を与えた画家でした。

例えば、我々日本人はまさにミレーの虜になった好例です。ミレーの描く農民の姿は、農業の国に生きる我々にとっても刺さるものがあったのでしょう。貧しくともひたすらに自らの仕事をこなす姿は、確かに日本の農民の姿と重なるように思います。

ちなみに、ミレーの作品「種まく人」は、実は同じ構図で2枚ある作品なのですが、その1枚が山梨県立美術館に所蔵されています。なお、もう1枚はアメリカのボストン美術館です。(ちなみに、今回代表作で挙げさせていただいたのは、ボストン美術館所蔵の方の作品です。)

アメリカや日本で絶賛されたミレーの絵ですが、世界的に有名な画家、フィンセント・ファン・ゴッホの胸をも打ちました。ゴッホもものすごい苦労した画家(生前には絵が1枚しか売れなかった、と言われているくらいですから…)なので、もしかすると現実をぐっと突きつけるミレーの絵に強い感銘を受ける素地があったのかもしれません。

ゴッホは、先にも挙げたミレーの「種まく人」を自分なりに消化して、同じく「種まく人」として絵を描いています。両者の「種まく人」を比較して紹介している絵画紹介ブログがありましたが、圧倒的にミレーの絵の方が良かったです。ミレーの描く農民の姿は、ただ真似して描くだけでは再現できない、魂が入っているように感じますね。

気になる方は、「ゴッホ 種まく人」等で検索してみてください。