パウル・クレー


プロフィール

生誕/死没

1879年~1940年

スイス

代表作

セネシオ

画像_パウル・クレー「セネシオ」

セネシオとはキク科の植物の一種です。この絵のようなオレンジ色の花を咲かせます。

ドゥルカマラ島

画像_パウル・クレー「ドゥルカマラ島」

ドゥルカマラ島という名の島は実際には存在しません。「芸術は目に見えないものを見えるようにする」というクレーの信念が感じられる作品ですね。

森の魔女

画像_パウル・クレー「森の魔女」

晩年に近付くにしたがってより抽象度の高い作品が増えていきます。純粋な線や形、色で構成されたそれらは、独特の温かさが感じられます。

プロフィール

生まれや環境

スイスの首都ベルン近郊の町に生まれたパウル・クレーですが、父親が音楽教師、母親が音楽学校卒という音楽一家に生まれました。

クレー自身も幼い頃から音楽に親しんでおり、10代前半の頃からヴァイオリン弾きとしてオーケストラにも入っていたようです。(プロ顔負けの腕前だったとか!)また、クレーは文芸少年でもあったようで、日記帳に自作の詩をしたためることもあったようです。

最終的には絵画の世界へ進むことになったわけですが、画家として活動を始めてからも、銅版画やガラス絵を試してみたり、アカデミックで伝統的な絵を描いたり、とにかく創作全般に幅広く興味を示していたようです。この旺盛な好奇心が、クレーの唯一無二の芸術観を作り上げたのでしょう。

10代後半にはミュンヘンに出て、美術学校に入学します。ですが、感受性が強く様々なことを深く洞察するクレーには、柔軟性がない学校教育が合わず、半年から1年ほどで退学することになります。

ちなみにクレーは、ミュンヘンの美術学校ではフランツ・フォン・シュトゥックという人物から教育を受けていました。シュトゥックは当時活躍していた画家でもあり、ミュンヘン分離派を創始したうちの1人でもあります。そして、後ほどクレーと接点を持つことになるロシアの画家、ワシリー・カンディンスキーも、このシュトゥックから美術教育を受けていました。

さて、学校を退学したクレーでしたが、すぐにイタリアへ旅行して過去の絵画や建築に触れました。特に建築について強い影響を受けたようですね。

イクメンのパウル・クレー

その後のクレーは、まだ画家としては無名なうちに結婚します。お相手はリリー・シュトゥンプフという女性で、2人の間には息子も生まれますが、クレーはまったく収入源がない状態でした。奥さんのリリーはピアノ教師でもあったので、リリーが稼ぎ、クレーが家事や子どもの養育をしていたようです。マメな性格のクレーは10代頃から日記を書いていたのですが、子育てをするときにも詳細な育児日記を残したようです。

なお、この育児日記を含むクレーの日記は息子のフェリックスによって編集された後、他の研究者によって再編集され、日本ではみすず書房さんから「クレーの日記」として出版されています。(私もまだ読んだことないので今度読んでみようと思います。)

青騎士への参加とチュニジア旅行

パウル・クレーの画家としての最初期は、銅版画の作品をミュンヘン分離派展に出展したり、スイスで個展を開いたりしていましたが、クレーは自分の画風を模索していた時期でした。徐々に過去の画家やアカデミックな絵画ではなく、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホなどの先輩の画家たちから影響を受けていました。

道を模索している過程でクレーは、フランツ・マルクとワシリー・カンディンスキーと知り合います。彼らはちょうど、内部の仲違いによってそれまで所属していた新ミュンヘン美術家協会を脱会し、「青騎士」という新しい芸術グループを立ち上げたところでした。彼らの指揮する「青騎士」展にも二回目から参加したクレーは、刺激的な環境に身をおいたことでさらに感覚を鋭くさせていきます。

ちなみにマルクは動物の絵を描く画家でしたが、決して見たものをそのまま描くのではなく、実際には存在しない青い馬など、独特な彩色で動物を描きました。そしてカンディンスキーも音楽を色と形で表現しようと試みた抽象画家でした。クレーはマルクと親友だったようですが、クレーの考える美術理論はカンディンスキーと近しい印象がありますね。クレーはこの頃から線や色を使った抽象表現に取り組むようになります。

また、クレーにはもう一つの大きなターニングポイントがありました。それは1914年のチュニジア旅行でした。チュニジアは北アフリカの国で、地中海に面している土地柄か、とても明るくて鮮やかな色彩が溢れています。チュニジアで出会った色彩によって、クレーの絵柄は一気に振りきれ(?)ます。鮮やかで親しみのある色彩を中心にした抽象画。まさに今日私たちが抱いているクレーの絵のイメージに近しい作風になっていきます。

第一次世界大戦と親友の死

クレーが画家として活躍しだした頃はちょうど第一次世界大戦の真っ只中でした。悲しいことに、この戦争によって兵士として駆りだされたクレーの親友フランツ・マルクや、チュニジア旅行に一緒に行った画家友達のアウグスト・マッケなどが、戦死してしまいます。(クレー自身も出征しましたが、無事に帰ってこれました。)友人たちの死という大きな喪失感はクレーにもきっと大きな衝撃を与えたことでしょう。

戦後のクレーは画商と契約を結び、大回顧展を開くと共に、エッセイ「創造的信条告白」を発表し、またたく間に現代美術の第一線の画家となります。

バウハウス教授時代、そしてナチスからの弾圧、亡命

芸術の最前線で活躍をするパウル・クレーに目を付けた、ドイツの美術学校バウハウスの創始者ヴァルター・グロピウスは、クレーをバウハウスの講師として招きました。

バウハウスでは、クレーは色彩や造形についての講義をおこないました。一度祖国ロシアへ帰っていた昔馴染みのカンディンスキーも、この頃ドイツへ戻ってきており、クレー同様にバウハウスで教鞭をとっていました。バウハウスは、当時の時代性に合った、合理主義や機能主義に則った美術理論を体系立てて教える場でした。(現代のデザインの礎を作ったのはバウハウスとも言われています。)

クレーは現在の大学教授と同じように、そこで学生に理論を教えながら、自身も色彩や造形についての研究を深めていきました。

バウハウスはグロピウスが設立してからたった14年間で閉じられることになるのですが、それにはナチス政権の成立が大きく関わっています。ナチス政権が右翼的(ナチス総統のヒトラーは「ドイツ民族のみが秀でていて他は劣っている!」と主張していましたしね。)であることはみなさんご存じだと思いますが、グロピウスの後にバウハウスの校長に就任したハンネス・マイヤーという人物が表立って左翼的な人物だったこともあり、ナチスから目をつけられていたのです。

ちょっと脱線しますが、ヒトラーは元々芸術家志望だったのをご存知でしょうか。絵よりは建築に興味があったようですが、ウィーン美術アカデミーも受験していた経緯があります。ただ、ヒトラーは残念なことに合格することができず、芸術家になる夢を諦めたのでした。そういうことも、ナチスが現代美術を弾圧したことに繋がるかもしれないですね。(私情と言いますか…。笑)

そういう経緯があって、バウハウスは閉鎖へと追い込まれ、バウハウスで教鞭をとっていた教授たちの作品もナチスから「ドイツ社会を害する退廃芸術だ!」と言われてしまいます。ナチス政権下は激しい迫害があったこともあり、退廃芸術の烙印を押されたほとんどの画家たちは国外へ逃亡することとなりました。

パウル・クレーはバウハウス退職後もドイツのデュッセルドルフの美術学校で教鞭をとっていましたが、やはり迫害の波が押し寄せ、ついに家宅捜索まで受けてしまいます。身の危険を感じたクレー夫妻は、クレーの生まれ故郷のスイス、ベルンへ亡命します。

スイスに戻ってからしばらくはなかなかにふんだり蹴ったりな状態で、ドイツでの銀行口座が凍結されて貧困に陥ったり、原因不明の難病、皮膚硬化症にさいなまれたり、しばらくは作品制作にも手が付かなかったようです。

ですが復調してからは、かつてないほどの旺盛な創作意欲を見せ、1年で1200点以上の作品を制作したようです。そして、そのままスイスで60歳の生涯を閉じたのでした。

作風

描き手の理論と鑑賞者の感覚

パウル・クレーだけではありませんが、当時の抽象絵画の画家たちは理論派が多かったです。そもそも抽象画自体が、線や形、色といった要素でいかにして構成するかを突き詰めて出来上がった絵画です。

それゆえに、鑑賞者を突き放すような、「これは何を描いているんだ…?」と思わせるような絵も多いわけですが(笑)、パウル・クレーの素晴らしいところは、やはりその人に愛される色合いです。どんな美術理論で構成されているか知らなくても、十二分に楽しめる絵画作品となっています。その温かい色合いや子どもの絵のようなかわいらしい形に、日本人でも虜になっている人が多いことと思います。

実際、街中の雑貨店で見かける名画のポストカードの中にも、パウル・クレー作品は数多くあります。愛される作品はやはり、鑑賞したときに何かしら強い印象を抱かせるものです。クレーの作品であれば、それは特にその温かい色合いによるものなのだろうと思います。