ピエト・モンドリアン


プロフィール

生誕/死没

1872年~1944年

オランダ

代表作

赤・青・黄のコンポジション

画像_ピエト・モンドリアン「赤・青・黄のコンポジション」

モンドリアンが色と線による調和を目指して制作した作品。

タブローⅠ

画像_ピエト・モンドリアン「タブローⅠ」

モンドリアンが抽象的な作品を作り始めたのは、彼が40代後半に差し掛かった頃からです。それまでは様々なスタイルに挑戦していました。

ブロードウェイ・ブギウギ

画像_ピエト・モンドリアン「ブロードウェイ・ブギウギ」

モンドリアン晩年の作品です。様々な見方をされている絵で、空から街を見下ろした様子、地下鉄の路線図、ニューヨークのビルの窓etc様々な解釈がなされています。

プロフィール

生まれや環境

オランダのアメルスフォールトという町に生まれたピエト・モンドリアン。本名は、ピーテル・コルネーリス・モンドリアーンと言います。面白いことに、途中で苗字をモンドリアーン(Mondreaan)からモンドリアン(Mondrean)へ変えています。

そんなモンドリアンですが、小さい頃に画家である叔父に連れられて郊外でスケッチをしたことで絵に興味を持ち始めます。

モンドリアンの家庭はあまり安定した家庭ではなく、教師だった父親は宗教にのめり込み家を開けることが多く、また母親は病弱だったため、もっぱら家事は幼い子どもたちがやっている状態でした。そのような環境で育ったことが一因かもしれませんが、モンドリアンは生涯、伴侶を持とうとしませんでした。

モンドリアンは20歳頃にアムステルダム国立美術アカデミーへ入学し、伝統的な絵画を学び始めます。しかしモンドリアンは、在学中からモチーフを正確に客観的に描くこと以上に、色彩への興味を持っていました。

それゆえに、ローマ賞では二度落選、そこで「デッサン力が足りんな~」と評されてしまいます。きっとこういう出来事の積み重ねが、モンドリアンの、線描によるデッサンを重視する芸術のスタンダードに対する反発心を養っていったんでしょうね。

そしてモンドリアンは、アカデミー卒業後は自然と、色彩の効果を重視する印象主義的な方面に惹かれていきます。とりわけ、新印象主義の画家であるジョルジュ・スーラや、評論家たちから「ポスト印象主義」と言われたフィンセント・ファン・ゴッホらの影響を受けます。

キュビスムのその先へ

1911年にアムステルダムで開催された美術展で、モンドリアンはキュビスムの作品に接し感銘を受けてパリへ渡ります。モンドリアンはパリで、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックが提唱したキュビスムの理論を学び、自らの作品で実践していきました。

しかし、そのようにどっぷりとキュビスムへ浸かる中で、モンドリアンは次第に「キュビスムは自分の理想の完成形ではないのではないか?」と思い始めます。(実際そうだったのかは分かりませんが、どうやらパブロ・ピカソに自分のキュビスム作品を見せた際、鼻で笑われてしまったことも、モンドリアンがキュビスムから離れるきっかけとなったのでしょう。)

モンドリアンはキュビスムについて、「キュビスムが展開する抽象化は、その究極の目標である純粋なリアリティの表現へと向かっていない」と言っています。この「究極の目標である純粋なリアリティの表現」についてちょっと触れようと思います。

モンドリアンは、モチーフの情報(形や色)が残ってしまっている時点で、それは純粋なリアリティではないと考えたようです。モンドリアンだけでなく、同じように抽象表現を開拓していったワシリー・カンディンスキーシュプレマティスムの創始者であるカシミール・マレーヴィチらは、おおよそみんな、絵画における「純粋なリアリティ」を、現実にあるものを見てそのまま描いたものではないと考えていたようです。

例えばカンディンスキーは、音の感じを絵として表現することで純粋なリアリティを追究しました。マレーヴィチは意味を見いだせるものを全て排除し、色や線まで排除した結果、キャンバスの真ん中に黒い正方形を描くだけの作品を作りました。

一方でキュビスムの作品は、そのモチーフの姿形が残っています。例えばピカソのキュビスムにおける代表作「泣く女」は、キュビスム特有の面の構成によって、描かれているものがモチーフ本来の姿とはかけ離れているものの、女が泣いている姿であることは見ればすぐに分かります。モチーフの個性が損なわれていないんですね。

この後に書きますが、モンドリアンが提唱した新造形主義では、モチーフそのものが持つ個性から、普遍性を抽出しようと試みたのでした。え…?小難しいですって?では、新造形主義の理論については、作風を紹介する段で改めて触れましょう。笑

なんにせよモンドリアンは、モチーフの個性が思いっきり残っている点から、キュビスムを「純粋なリアリティの表現へと向かっていない」と考えたのでしょう。

新造形主義の創始と、芸術雑誌「デ・ステイル」の創刊

ピエト・モンドリアンが病に倒れた父の見舞いのためにいったんオランダへ戻ったところ、第一次世界大戦が始まります。その結果、モンドリアンはパリへ戻ることができず、オランダでとどまることとなりました。

その折に、画家・建築家であるテオ・ファン・ドースブルフと出会い、二人は意気投合します。ドースブルフはモンドリアンが提唱した新造形主義の描き方で作品を作るようになり、モンドリアンは美術史に明るい博学なドースブルフから様々な知識を得ます。

モンドリアンとドースブルフは「デ・ステイル」という芸術雑誌を創刊し、同名の「デ・ステイル」という芸術グループを作ります。デ・ステイルはオランダ語で「様式」を表す語です。デ・ステイルでは新造形主義の理論に基づいた絵画作品が作られました。

(余談ですが、一般的には新造形主義という言葉より、デ・ステイルの名が通っているので、ピエト・モンドリアンは「デ・ステイルの画家」と言われることが多いですね。)

最終的に、モンドリアンとドースブルフは空間構成の考え方の違いから仲違いし、モンドリアンがデ・ステイルから抜けてしまいますが、デ・ステイルで活動していた期間がモンドリアンの画家人生において大きいターニングポイントであることは、現代で評価されている作品から見ても、間違いないと思います。

抽象表現の更なる追究

第二次世界大戦勃発の機運が高まってくると、ピエト・モンドリアンは戦火を避けるためにロンドンへ移ります。この頃から作品のタイトルの付け方が変化し始めます。

デ・ステイルの時期はもっぱらタイトルに「コンポジション」という言葉を入れた作品を作っていましたが、「コンコルド広場」などの具体的な地名等を盛り込んだタイトルをつけ始めます。

その後さらに戦火が激しくなり、モンドリアンはアメリカのニューヨークへ移ります。この頃、モンドリアンは60歳くらいでしたが、ニューヨークでも積極的に作品制作に取り組みました。

モンドリアンはニューヨークで初めて聴いた音楽「ブギウギ」に触発され、代表作で挙げた「ブロードウェイ・ブギウギ」など、タイトルに「ブギウギ」を入れた作品を作り出します。実際モンドリアンは、ブギウギに併せて踊ることも好きだったようですね。

作品制作は、1944年に風邪をこじらせて肺炎で亡くなるまで続けられました。最期の作品「ヴィクトリー・ブギウギ」は未完のままとなっています。

作風

新造形主義の理論

ピエト・モンドリアンは、伝統的な絵画や、印象主義的な絵画、キュビスムなどに影響を受けつつ新造形主義へたどり着いた画家でしたが、主に私たちが知っているモンドリアンの絵画は、デ・ステイル以降の抽象的な絵画だと思いますので、そこの絵画について触れていこうと思います。

モンドリアンはキュビスムに満足できず、新造形主義を提唱して作品を制作していきましたが、新造形主義で大切にされていたことは、モチーフの持つ普遍性と個別性の絶妙なバランスでした。

普遍性というのは、全ての事物に共通しているということです。例えば、リンゴを描くときに、そこから普遍性を抽出するとなると、おおよそその果実の「赤さ」と「丸み」、そしてもう一つ挙げるとすれば、てっぺんのくぼんだ箇所からちょこんと出ている「茎」でしょう。

伝統的な絵画(具象絵画)では、画家はモチーフとして選んだリンゴを正確に描写しようとします。ボツボツとした表面のざらつきを描いたり、丸みが強い部分としゅっとした部分の描き分けをおこなったりします。

これはモンドリアンに言わせれば、モチーフの個別性のみを写しとっているものであって、純粋なリアリティではないのです。

一方で、新造形主義を軸としたデ・ステイルでの作品制作は、厳密に規定された線や空間による構成、指定された色によっておこなわれました。

で、ここからは私の持論になりますが、ピエト・モンドリアンが現代でも非常に人気が高い画家であり、彼の作品をテキスタイルデザインにしたファッションや、彼の作品に触発されて作られたグラフィックデザインなどが数多くあることには、理由があると私は考えています。

先ほど、モンドリアンがデ・ステイルでの活動の中で、モチーフの普遍性を抽出し個別性とのバランスをとった作品を制作していたことに触れましたが、これって現代のデザインと似た要素があるんですよね。

どの人が見ても同じように情報が伝わるように、あるいは、そのままだと分かりにくいものが分かりやすく伝わるようにするのが現代におけるデザインの役割です。

デザインされたものが誰にとっても分かりやすいものであるのは、まさにモンドリアンがやったように個別のものから普遍性を抽出して制作されているからです。

例えば非常口のマークなんてそうですよね。緑色の中に白い四角があり、その中心に緑色の丸と曲線・直線で描かれた人をデフォルメした形があります。それぞれ、出口の形や、出口を出ようと駆けていく人間の姿を、最低限の要素で表現しています。

現代では、デザインをアートと対比的に扱いますが、実は、とらえ方によってはデザインも機能面を意識して制作された抽象絵画と言えるんですね。

そんな我々にとって馴染み深いデザインの先駆け的な抽象絵画。これこそがモンドリアンの絵画に親しみを覚える理由なのだろうと思います。

線の形状や色の数を極端に制限して構成によって、純粋なリアリティを追求したピエト・モンドリアン。モンドリアンも含め、抽象画家たちは「誰も作れそうなものを作っている」と非難されることもありましたが、画家が何を目指し、どんな方法で取り組んだのか、ちょっと知っていることで、ガラッと見え方が変わってくるのが抽象絵画の面白さ、そして、抽象絵画の先駆け的存在である画家、ピエト・モンドリアンの魅力であると私は思います。