ピエール=オーギュスト・ルノワール


プロフィール

生誕/死没

1841年~1919年

フランス

代表作

ムーラン・ド・ラ・ギャレット

画像_ピエール=オーギュスト・ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」

パリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を描いたものです。メインで描かれた人物たちはみなルノワールの友人たちと言われています。

シャルパンティエ夫人と子どもたち

画像_ピエール=オーギュスト・ルノワール「シャルパンティエ夫人と子どもたち」

柔らかい画面の中に穏やかな笑顔が広がる人物画。ルノワールの絵が愛される理由の一つですね。

陽光を浴びる裸婦

画像_ピエール=オーギュスト・ルノワール「陽光を浴びる裸婦」

これは中期の絵ですが、ルノワールは晩年に数多くの裸婦を描いています。

プロフィール

生まれや環境

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、フランス中南部のリモージュという町で生まれましたが、ルノワールが3歳のときに家族みんなでパリへ移住します。

父親は仕立て屋をしており、母親はそれを手伝うお針子でした。クリエイティブ一家ですね。(余談ですが、ルノワールの子どもは2人いて、兄ピエール・ルノワールは俳優になり、弟ジャン・ルノワールは著名な映画監督となりました。)

幼い頃から多彩だったルノワールは、絵画だけでなく声楽でも才能を伸ばしていました。作曲家シャルル・グノーが組織する聖歌隊へ入隊し、グノーから絶賛され、オペラ座の合唱団への入団を勧められますが、磁器工場を経営していたルノワールの父の知人から「お宅の息子さんを雇いたい」と言われていました。

結局ルノワールは、自ら希望して磁器工場で徒弟として働くことになり、聖歌隊も辞めることになります。

もしもここで聖歌隊を選んでいたら、ピエール=オーギュスト・ルノワールという名前は、声楽家として知られることになっていたかもしれません。そう考えると面白いですね。

さて、磁器工場で磁器の絵付職人見習いとして修行を積んでいたルノワールでしたが、産業革命のあおりを受けて、職人たちは肩身が狭くなっていきます。というのも、ルノワールら絵付職人たちを駆りだして工場制手工業で作業をしていたところに、人間の仕事にとって代わる機械が現れたわけです。

結果、ルノワールは絵付職人としての職を失うこととなりました。が、このことがきっかけで画家を志すことになります。ルノワールが17歳頃のことでした。

20代初めにエコール・デ・ボザール(パリにある美術学校)へ入学し、画家になるための勉強を本格的に始めます。それに並行してパリでアトリエを開いていたスイス人画家シャルル・グレールの画塾にも通いだします。

シャルル・グレールの画塾には、後に印象派と呼ばれることになる同年代の若い画家たちが集まっていました。それは例えば、クロード・モネや、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらでした。またこの頃、ルノワールやモネと並ぶ印象主義の巨匠となる、カミーユ・ピサロとも、モネの紹介で知り合ったようです。

彼らはよく一緒にパリ郊外のフォンテーヌブローの森へスケッチへ行ったようですね。

彼らにとってのスケッチは、当時の一般的な画家たちのような下描きとしてではなく、きちんとした作品として仕上げるものでした。当時の画家たちにとって屋外でのスケッチはあくまでモチーフの下調べであり、実際の作品はアトリエできちんと仕上げるのがセオリーでした。ルノワールら印象派たちがそのやり方をとらなかったのは、スケッチでありのままの光を描く必要があったからです。

このように、ルノワールらは絵画のセオリーに従わずにやっていたものですから、なかなかサロンで入選しませんでした。ルノワールも1864年に初めて入選したものの、その後は入選したり落選したりを繰り返しました。

サロンで入選しないと世間で賞賛されませんし、パトロンも付きにくいので、当時のルノワールやモネは絵具を買うことすらままならないほど貧乏だったようです。近代の画家たちを取り巻く状況は、どこか現代とも通ずるものがありますね。

そんなルノワールやモネに対し、仲間であり友人でもあったバジールはアトリエをシェアしたり、画材を分けたり、サロンで落選した作品を買い取ってあげたり、惜しみなく援助しました。(バジールは裕福な家庭の生まれで、かつ、とても気前が良い人間だったようです。)

それにしても、ルノワールも含めてこのときに集った若手画家たちが、現代には誰もが知っている大画家として賞賛され、絵画の歴史に刻まれる存在になったのかと思うと、この頃の彼らの集いは「革命前夜」といった趣でとてもワクワクしますね。

初期の頃のルノワールは、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワなどの画家に影響を受けていましたが、一緒に行動していた印象主義の画家たちの影響もあり、印象主義的な作品を作るようになっていきます。

印象主義、ちょっと違う…?

合計8回開催された印象派展にも第1~3回に立て続けに参加したルノワールでしたが、回を経るごとに印象主義の画家たちと自身の目指しているものが「ちょっと違うな~…」と思い始めます。

ルノワールは若い頃から「私は人物を描く画家だ!」と公言していたこともあり、光の表現を追求するあまりにモチーフの描線すらも曖昧な作品を制作するようになっていく印象派の傾向に、違和感を覚えたのでしょう。実際、ルノワールは印象主義の代表的な画家でありながら、人物については極力具象的に描いていることが見てとれるかと思います。

印象主義的な絵画と距離を置く一方で、ルノワールはサロンに再度出品し始めます。代表作で挙げた「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が大絶賛されて、一流の画家としての立場を築きます。

また、1881年にイタリア旅行へ行ってから、ルノワールはさらに印象派から離れることとなります。イタリアで、ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティの作品などに触れたり、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルの影響を受けたりしたことで、ルノワールは硬質な描線で人物を描きだす作品を制作します。

ですが、そのような絵を描いたのは1880年代の10年間ほどだけで、その後、またルノワールらしい元の柔らかい線と温かい色調に戻ります。

晩年の逸話

晩年のルノワールは、リウマチ性の疾患に蝕まれ、車椅子生活を余儀なくされます。それでも制作の手を止めなかったことから、「指に筆をくくりつけて描いた」という逸話まであります。晩年のルノワールは、豊満な女性の裸体を数多く描きました。

生涯を通して多作だったルノワールは全作品が4000点にも上ると言われています。

作風

いつの世でも愛される親しみやすさ

ピエール=オーギュスト・ルノワールの絵は非常に多くの人が好む印象があります。決して印象派だから、とかそういうものではないです。ルノワールの絵それ自体が愛される理由を物語っています。

一つはやはり人物を描き続けたことが挙げられるでしょう。それもポジティブな表情をした人物が多いところが大きいですね。それは例えば、何かを夢見るようにうっとりする少女であったり、寄り添い合う姉妹であったり、楽しそうに談笑する人々であったり。もちろん陰気な絵画で熱狂的なファンを得ている画家も数多くいますが、全世界、全年代に愛される絵というのは、やはり優しげで平和で穏やかな絵なのだろうと思いますね。

晩年に一時期冷たげな色調で硬さを感じる絵を描いていたことはありましたが、基本的にルノワールの絵はふとした優しさや温かみに溢れています。

そして先ほど「色調」と言いましたが、これもルノワールの絵が愛される理由の一つでしょう。印象派は、重ねれば重ねるほど濁っていく絵具で四苦八苦しながら明るい光の表現を追求した画家のグループです。ルノワールの絵が全体的に明るいのも、もちろん印象主義的なアプローチで絵を描いていたことがあるでしょう。

絵描きをしている周りの方々を見回していても、ルノワールに影響を受けたという方は結構いらっしゃいますね。油絵でありながら荒々しさを感じず、色鉛筆で繊細にぼかしたような柔らかい人物の描線など、絵を描く人たちから見てもとても魅力的なのでしょうね。