ワシリー・カンディンスキー


プロフィール

生誕/死没

1866年~1944年

ロシア(当時はソ連)

※ドイツ、フランスでも活動し、後に両国籍とも取得。

代表作

青騎士

画像_ワシリー・カンディンスキー「青騎士」

この絵を描いた当時はまだ抽象絵画を創始する前でしたが、後にフランツ・マルクと共に同名の芸術年刊誌を創刊します。さらに表現主義の画家たちと集って始めたサークルにもこの「青騎士」という名前を使いました。

コンポジションⅥ

画像_ワシリー・カンディンスキー「コンポジションⅥ」

カンディンスキーがシリーズとして描いたものの一つが、この「コンポジション」シリーズ。彼がもっとも純粋に自分の心の内を表現した作品群と言われています。

白の上に

画像_ワシリー・カンディンスキー「白の上に」

パウル・クレーらと共にバウハウスで教鞭をとるようになった頃の絵画です。幾何学的な形をたくさん使っています。

プロフィール

生まれや環境

ワシリー・カンディンスキーはモスクワで生まれ、現在はウクライナのオデッサという町で育ちました。

理論派で優秀だったカンディンスキーはモスクワ大学に入学、そこで政治経済と法律を学びましたが、モネの「積みわら」という作品を見て衝撃を受け、法律などを学ぶことをやめて芸術を学ぶためにドイツのミュンヘンへと渡ります。

絵画の技法や芸術理論を学んだカンディンスキーは、1902年にベルリン分離派展へと出展しています。この頃、彼は36歳くらいでしょうか。ちなみに、ウィーンやベルリンなどで活動した分離派は、頭が固く古いまま脱皮をしない芸術に対して不満を募らせた画家たちが結成したグループです。

最初は分離派と共に活動をしていたカンディンスキーらドイツ表現主義の画家たちでしたが、ベルリン分離派の代表たちと対立し、ついには表現主義の画家が分離派展への出展を拒否する事態になります。

分離派から離れた表現主義の画家たちは、ミュンヘン新芸術家協会を設立します。ですが、カンディンスキーは協会設立へ向けての打ち合わせなどに呼ばれておらず、そのことに腹を立てました。他のメンバーは彼をなだめるために協会の初代会長になるようにカンディンスキーへ勧め、それを受け入れることで彼は怒りをおさめました。

そんなごたごたの中でスタートしたミュンヘン新芸術家協会でしたが、徐々に新しい問題が浮き彫りになっていきます。

カンディンスキーがどんどん自身の芸術理論に基づいて、より鑑賞者の感情へ直接訴えかける、客観的にモチーフを描かない抽象絵画を描き始めると、協会内でも保守的な考え方をしていた画家たちがカンディンスキーに文句を言い始めたのです。結局、協会設立から2年で、カンディンスキーはフランツ・マルクと共に協会を脱会し、ドイツ表現主義の新しい芸術家グループ「青騎士」を立ち上げます。

青騎士はカンディンスキーの芸術理論に共感した画家たちが集まり形成されたグループだったので、カンディンスキーはのびのびと抽象絵画を描き始めます。

そうやって主にドイツで活動をしていたカンディンスキーでしたが、第一次世界大戦が終わると祖国ロシア(当時はソ連ですね)はモスクワへ舞い戻ります。

戻った当時は、レーニンが革命の真っ最中だったので、レーニンから「前衛芸術は革命的だ!」と言われ、前衛的な抽象画を描いていたカンディンスキーは厚遇されました。しかし、その後スターリンが統治するようになると一転して前衛芸術は軽んじられ、結局カンディンスキーはドイツへ舞い戻ることになりました。

第一次世界大戦もそうですが、非常にヨーロッパ中が不安定だった時代だったので、カンディンスキーは時代に翻弄された画家でもあります。ロシアで受け入れられない憂き目に遭い、ドイツへ戻ってきたカンディンスキーは、若い頃からの友人であり画家のパウル・クレーと共に、設立されたばかりのドイツの美術学校「バウハウス」で教鞭をとることになりました。

ですが、それから10年程度でバウハウスはナチス・ドイツによって閉校へと追い込まれてしまいます。カンディンスキーは閉鎖されるまでバウハウスで勤めていたようです。

ドイツ国内にはナチス・ドイツの旋風が吹き荒れていたこともあり、カンディンスキーは今度はフランスへと亡命します。しかし、結局さらに強大になったナチス・ドイツによる侵略が始まり、フランスもナチスに占領されてしまいます。その折にアメリカへの亡命の話も出ていたようですが、カンディンスキーは頑としてアメリカへは亡命しようとせず、フランスはパリの郊外の町でひっそりと息を引き取ったのでした。享年78歳でした。

青騎士の2つの由来

ワシリー・カンディンスキーの1つ目の代表作、キャプションまで読んでいただいた方はもうお気付きでしょうが、カンディンスキーが立ち上げた芸術家グループ「青騎士」の名前の由来の一つは、初期の頃にカンディンスキーが描いた「青騎士」という絵画です。

ですが、実はもう一つ由来があります。

ミュンヘン新芸術教会を一緒に脱退し、一緒に青騎士を立ち上げたフランツ・マルクという画家はカンディンスキーととてもウマが合ったようで、騎士が好きなカンディンスキーと馬が好きなマルク、そこに2人が揃って好きだった青色を冠してこの名前にしたそうです。

奥さんの愛の力で再評価された

不遇のうちにフランスで亡くなったカンディンスキーでしたが、死後もナチスに目の敵にされ続け、ナチス支配下のフランスではカンディンスキーの絵を売買することはおろか、彼のことを議論することすら咎められる状態でした。

第二次世界大戦後もしばらくは評価されることなくそのままとなっていましたが、1967年に未亡人となっていたカンディンスキーの奥さん・ニーナが、晩年のカンディンスキーを支えたことを讃えられ、フランスで最も栄養ある勲章「レジオンドヌール勲章」を受けたことで、ようやくワシリー・カンディンスキーという画家は復権を果たすことが出来たのでした。

作風

カンディンスキーが理想とした「抽象絵画」って?

元々は法律家として活躍していたカンディンスキーがモネの「積みわら」に影響を受けて画家になったのが30歳を過ぎた頃でしたが、彼はワーグナー作のオペラ「ローエングリン」にもいたく感銘を受け、絵画と音楽の両方から大きな刺激を受けて芸術家となりました。

そんなカンディンスキーが人生をかけて表現し続けてきた抽象絵画は、それまでの伝統的な絵画の基本である「見たものを客観的に形として捉えて描く」ということを真っ向から否定する絵画でした。カンディンスキーはリズミカルな色のキャンバスの上で躍らせることで、人の心に直接訴えかける表現を探り続けました。

もちろん抽象絵画へと至る道筋は、画家である以上に芸術理論家として名を馳せた彼の理論の上に成り立ったものでしょう。しかし、色と音という感覚的なものに強い感動を覚えて、それまでのキャリアをかなぐり捨てて画家へ転身したエピソードからも、カンディンスキーの真っ直ぐで無垢な子どものような魂によってこそ、抽象絵画の開拓者となりえたのだと私は思います。

カンディンスキーの残した言葉にこのようなものがあります。

「色は鍵盤であり、目はハーモニー、魂は無数の弦を持つピアノだ。そして、画家はそのピアノを弾く手である」

幾何学的になっていったバウハウス時代

青騎士を立ち上げた頃からより深く表現主義的な作風へ進んでいったカンディンスキーですが、祖国からドイツへUターンしバウハウスで先生をやっていた頃は、またそれまでの彼とは違った抽象表現をおこなっています。代表作の一つ「白の上に」を見ていただけば分かるように、とにかく幾何学模様のようなものが多いです。線や図形を組み合わせて画面を構成しています。

これは現代デザインに多大な影響を与えた芸術学校・バウハウスが、徐々に、表現主義的な感覚や精神性よりも、形の合理性や機能性を重視していったことから、そこで教鞭をとっていたカンディンスキーにも少なからず影響があったと言えるのではないでしょうか。

同じくバウハウスで先生をしていたパウル・クレーも、似たような構成的な画面を作っていることからも、彼らによってバウハウスの色が作られていき、また、バウハウスのカラーによって彼らの作品にも構成的な要素が出現した、と言えるのではないかと思います。