画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」を分かりやすく解説!

画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」を分かりやすく解説!

今回はフィンセント・ファン・ゴッホを解説していくわ。

日本人にも大人気で世界的にファンが多い画家だな!

「ゴッホ」の代表作は?

まずはゴッホの代表作から見ていきましょう。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」の画像
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」
1888年/ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」の画像
フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」
1888年/クレラー・ミュラー美術館(オランダ)
フィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」
1889年/ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)

有名な作品だらけだ!
ここでは紹介していないけど、他にもたくさんあるよな〜。

「ゴッホ」はどんな人?

いきなりだけど歌琳さん、ゴッホという画家についてどんなイメージがあるかしら?

そうだな〜、やっぱり印象が強いのは自分の耳を切り落とした事件だよな〜。
その事件の所為で、精神疾患を抱えていた画家というイメージはあるな!

そうね、わりと多くの人がだいたいそういうイメージを持っていると思うわね。

耳切り事件については後ほど解説するので、まずはゴッホがどういう性格の人だったか触れていくわね。

気難しくて不器用な性格

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダ南部のズンデルトで五人兄弟の長男として生まれたの。

幼いころから気難しい性格で、父親との折り合いが悪かったと言われているわ。

あれま……。
やっぱり「気難しそう」というのはイメージ通りだなぁ。

そんなゴッホは、就職して解雇されたり、唐突に聖職者を目指し始めたり、迷走した人生を歩んだわ。

そうして紆余曲折あって、画家を目指し始めたのは28歳のときのことだったわ。

へぇ〜!
意外と絵を描き始めたのは遅かったんだな!

ただ当初、画家としてはまったく芽が出なかったの。

オランダの町を転々としながら制作を続けたものの、貧乏すぎて生活が送れなくなってしまったわ。

そこで、パリにいる弟のテオを頼って兄弟での共同生活をスタートさせたの。

ようやく地盤ができそうだな!

と、思うじゃない?

でも、ゴッホは弟・テオに対しても持ち前の気難しさを発揮して、すぐに共同生活が破綻してしまったわ。

難儀な性格ね……。

パリを出たゴッホは、アルルという町へ移住したの。

アルルは南フランスの港町。
天気が安定していて、とてものどかだったわ。

それが、精神がたかぶりやすいゴッホの心を癒したのよ。

陽の光を浴びるって大事だな……。
いや、もちろんそれだけが理由じゃないと思うけど。笑

耳切り事件

アルルで生活していたゴッホは、ふと思い立って他の画家たちとの共同生活を考えたわ。

そこで、弟・テオを介して他の町にいる画家たちに
「うちに住んで一緒に絵を描かないか?」
と提案したの。

アクティブでいいな!

ところが、前向きな返答が返ってきたのは、ゴッホと同時代の画家・ゴーギャンだけだったわ。

人間関係で苦労していた様子がここでも見えるね……。

ってか、ゴーギャンも日本人に人気の画家だよな!
ゴッホとゴーギャンは仲が良かったのか?

良かったか?と言われると疑問が残る部分もあるけど、悪くはなかったと思うわ。

実際、ゴッホとゴーギャンが共同生活を始めた当初は、一緒に絵を描いたり散歩したりして仲良く過ごしていたの。

当初は……?
あれ……、なんか嫌な予感が……。

想像のとおりだと思うわ。

ゴッホの気難しさや二人の間の価値観の違いによって、わずか二ヶ月で大喧嘩が発生
ゴーギャンが出ていって共同生活を解消したわ。

あらま……。

歌琳さん、さっきゴッホとゴーギャンの仲について聞かれたとき、わたしは
「良かったか?と言われると疑問が残る部分もある」
と言ったわよね?


そう言っていたな。

実を言うと、ゴーギャンはそもそも貧乏から脱するためにゴッホと共同生活することにしたと言われているの。

ゴーギャンがアルルに住み始めるまでに三ヶ月空いていたのも、
「生活費安くなるのは良いけど、ゴッホと住むのか〜〜」
という葛藤の現れとも言われているのよ。

え〜〜!
それは、さすがにゴッホかわいそうだな……。

それだけゴッホは気難しくて、ゴーギャンは共同生活がうまくいかない予感がしていたということかもしれないわね。

まぁ、確かになぁ……。

ちなみに、ゴッホとゴーギャンの大喧嘩がきっかけであの有名な「耳切り事件」が起こったのよ。

え!?
そうだったのか!

ゴーギャンが出て行った一週間後、うずまく感情を処理できなくなったゴッホは自分の左耳を切り落としたわ。

そしてその左耳を、ご近所さんに送りつける奇行に走ったの。

この耳切り事件は地元メディアでも報道されたほどの大事件だったのよ。

ひえ〜〜!
耳を送りつけるって怖すぎるぜ……!!

この耳切り事件のころから、ゴッホの精神状態はどんどん悪化していったのよ。

弟・テオとの関係

そんな精神を病んでいったゴッホのことを支え続けたのが四つ年下の弟・テオよ。

テオドルス・ファン・ゴッホの画像
テオこと、テオドルス・ファン・ゴッホ。

ここまでにも何回か名前が出てきていたな!

テオは兄・ゴッホの生活費を工面したり画業のマネジメントをおこなったりしたわ。
それだけでなく、離れて暮らすようになってからは手紙のやりとりをして精神的にも支えたのよ。

兄弟愛を感じるな〜〜。

単なる兄弟愛だけでなく、テオはゴッホの絵の才能を心の底から信じていたの。

兄の気難しさに振り回されてパリでの同居を解消した後も、テオは妹に

「今は認められていないが、いつかは売れる日が来る」

と言っていたそうよ。

まったく売れておらず貧乏暮らしをしている兄のことをそこまで言えるってすごいな……。

しかも、その後ちゃんと世界中に知られる画家になったしな……!

そうね。

ただ、テオは兄のことを支え続けたのだけど、ゴッホの精神状態はその後良くなることが無かったわ。

結局、ゴッホは37歳で拳銃自殺してしまうの。
そしてもともと病弱だったテオは、兄の死の半年後に後を追うようにして病死するわ。

なんか……、兄弟として生まれてきたことに運命的なものを感じるな……。

生前は1枚も絵が売れなかった?

そういえば、ゴッホは生前絵が1枚も売れなかったんだよな?

そういう話も出回っているようだけど、それは誤りよ。

え?!
そうだったのか?!

「赤い葡萄畑」という作品が1枚だけ売れたのよ。

フィンセント・ファン・ゴッホ「赤い葡萄畑」の画像
ゴッホの生前、唯一売れた絵「赤い葡萄畑」。
買ったのは、ゴッホのアルル時代の友人の姉である、画家・アンナ・ボック。
現在は、モスクワのプーシキン美術館に所蔵されている。

いや〜、それにしてもすげぇよな〜。
生前1枚しか売れなかった画家が、今や世界中に知られる画家だもんなぁ。

けど、どうしてゴッホは死後そんなに有名になったんだろうな?

それについてはさまざまな要因があるわね。

ただ、一つ前提として知っておいてほしいのが、ゴッホの画家としての活動期間はとても短かったということ。

どれくらいの期間、画家として活動していたんだ?

たった10年間よ。
しかも、ほとんどの作品は晩年の2年間で描かれたものなの。

だから、ゴッホのことを
「もっと活動期間が長かったら存命中に売れていたはず」
と言う研究者もいるのよ。

なるほどな〜。
もっと長生きしていたら、さらにみんなを虜にする作品を生みだしていたのかもって思うと、なんだか惜しい気持ちがするなぁ……。

「ゴッホ」の作品の特徴は?

それでは、ゴッホの作品の特徴について解説するわね。

特徴的な色やタッチがどうやって生まれたのか気になるぜ!

実はモノマネ上手

意外がられるかもしれないけど、ゴッホはとてもモノマネ上手なのよ。

え〜?!
それは確かに意外だな!

日本人の多くが知っているゴッホらしい絵は、ほとんどがアルル時代に描かれたもの

実はそれ以前は、他の画家たちや時代の流行を取り入れて描いているものが多いのよ。

自分の作風を模索していたんだろうなぁ。

うねうねと渦巻いた筆致

ゴッホと言えば、あのうねうねとした筆致が特徴的だよな〜。
まるで渦のような描き方が、独特で癖になるっていうか…
…。

そうね。
あの筆致は自身の心の中の激しい感情を表現したものと言われているのよ。

一説によると苦しみが大きかった時期ほどうねりが激しいとか。

そういうことだったのか!

……ところで、ゴッホって印象派の画家なのか?

わりと印象派の画家と一緒にされていることが多いけど、どことなく違う感じがするんだよな〜。

歌琳さん、鋭いわね♪

美術史的には、ゴッホは印象派ではなくポスト印象派(後期印象派)の画家と分類されることが多いわ。

印象派の画家と一緒にされることが多いのは、日本人にとって印象派がとてもポピュラーだからにすぎないわね。

へ〜、後期印象派かぁ。

それって印象派とはどんな違いがあるんだ?

すごく簡単に言うと、

・見えているものをそのまま絵で再現しようとしたのが印象派
・印象派の影響を受けつつも内面を表現したのがポスト印象派

というところね。

「自身の心の中の激しい感情を表現した」
というゴッホの絵の特徴は、まさにポスト印象派ってことなのか!

そうね。

ただゴッホ自身は意図的に内面を表現しようとして、うねうねさせたわけではないの。

本当は見たものを見たままに描きたかったものの、そのときの精神状態が影響してしまっていたと言われているわ。

なるほどなぁ。

ちなみに、ゴッホと言えば自画像がものすごく多いのも特徴よね。

本人は単純に
「モデルが自分なら楽だし、良い練習になるから」
くらいの気持ちで自画像を描いていたようね。

けど、やたらと自画像に執着していたのは、ゴッホの精神状態が影響していたという説があるわね。

鮮やかな色彩

あと、うねうねタッチと並ぶくらい特徴的だなーって思うのが色の鮮やかさだよな!

そうね。
とても強い色を使っているから印象的よね。

特に黄色をよく使っているよな〜!
代表作のひまわりなんて、黄色の中に黄色を描いているしな〜。

ゴッホが鮮やかな黄色を多様していた理由は諸説あるわ。

貧乏だったから絵の具が揃えられなかった説。
鮮やかな色合いや黄色が好きだった説。

いろいろあるけど、興味深い説を二つ紹介するわね。

まず一つは、精神疾患の薬の副作用説

薬の副作用?!

ゴッホが服用していた精神疾患の薬の副作用に「黄視症」という症状があるの。

これは字のとおり、物が黄色がかって見える症状なの。

それゆえに、妙に鮮やかで黄色を多様したという説があるわね。

もう一つの説はどんななんだ?

二つ目は、「色弱」だった説よ。

色弱ってなんだ?

すごく簡単に言うと、多くの人と色の見え方が違う状態のことよ。

ゴッホは色弱だったために、色が褪(あ)せて見えていたという説があるのよ。

そ、そうか。
世界が褪せて見えていたら、描くときに調整しようとして鮮やかになる可能性はあるな……!

憶測の域を出ないけど、

ゴッホの精神疾患はうつ病ではなく統合失調症で、色弱を併発していたのではないか?

とも言われているわね。

なるほどな……。
けどなんにせよ、ゴッホの絵の特徴に精神疾患が関わってくるのは間違いなさそうだなぁ。

浮世絵の影響

実はゴッホの作風に大きな影響を与えたのが、日本の浮世絵なのよ。

そうなのか!
いや〜、嬉しいなぁ!

ゴッホが生きていた時代は、ちょうど日本の浮世絵が万博を通じて初めてヨーロッパに知れ渡った時期だったの。

睡蓮の絵で有名な印象派の画家・モネも日本の美術にハマっていたと言われているわ。

あらま、モネさんも!
いや〜、これまた嬉しいねぇ〜!

こういったヨーロッパの画家たちが日本美術に傾倒した風潮を「ジャポニスム」と言うの。

ちなみに、ゴッホは貧しい生活の中で歌川広重などの浮世絵を500点ほど収集したのよ。

ええ……?!
懐が心配になる数だな……!

ゴッホはよほど日本美術に心を奪われていたのか、弟・テオへの手紙の中でも「日本人はすごいぞ!」と語っているわ。

実は、ゴッホがアルルへ移住したのも、
ヨーロッパで日本の浮世絵に近い色合いを感じられる場所はアルルだ!
と、たどり着いた結果と言われているわ。

活動拠点選びにまで影響しただなんて……!
ゴッホにとって日本美術との出会いはよほど大きい衝撃だったんだろうなぁ。

ちなみにゴッホの作品の中に見える浮世絵の影響は、

・原色に近い強い色使い
・遠近法を無視した構図
・平面的な塗り
・はっきりとした輪郭線


といったものがあるわね。

浮世絵とゴッホの作品を比較した画像
強い色合いと平面的な塗り、濃い描線など、浮世絵の特徴が盛り込まれている。
遠近感がなく平面的な感じも浮世絵的。

これだけ浮世絵の影響を受けているとなると、日本人がゴッホの作品に心惹かれるのも分かる気がするなぁ。

「ゴッホ」の作品はどこで見れる?

国内で見られる場所は結構あるわね。

ただ、全盛期のゴッホの作品が見られる場所は限られているわ。

個人的にはやっぱりSOMPO美術館の「ひまわり」が、ゴッホ全盛期の作品だしおすすめだな!

ゴッホのことをもっと知りたい方は、まず解説付きの画集などを読むと良いと思うわ。

例えば、こういうものね。

書籍「西洋絵画の巨匠(2) ゴッホ」を読む

書籍「もっと知りたいゴッホ 生涯と作品」を読む

もし、もう少し踏み込んでゴッホのことを知りたいという方は「ゴッホの手紙」もおすすめよ。

「ゴッホの手紙」は、ゴッホが家族や数少ない画家仲間とやりとりした手紙をまとめた書簡集
なので、ゴッホの人となりを知るにはうってつけなの。

書籍「ゴッホの手紙 上」を読む

書籍「ゴッホの手紙 中」を読む

書籍「ゴッホの手紙 下」を読む

ゴッホの生涯を伝記的に紹介した映画もあるから、本を読むより映像の方が好きな人はこっちもチェックしてみてくれ!

映画「ゴッホ 真実の手紙」を観る

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