浮世絵師「葛飾北斎」を分かりやすく解説!

浮世絵師「葛飾北斎」を分かりやすく解説!

今回は日本が世界に誇る浮世絵師・葛飾北斎を紹介するわ。

日本の画家が、世界中で愛されているのは嬉しい限りだな!

「北斎」の代表作は?

それでは、まず北斎の代表作を見ていきましょう。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 - 神奈川沖浪裏」
葛飾北斎「冨嶽三十六景 – 神奈川沖浪裏」
1831〜1833年ごろ/東京国立博物館
葛飾北斎「冨嶽三十六景 - 凱風快晴」
葛飾北斎「冨嶽三十六景 – 凱風快晴」
1831〜1833年ごろ/東京富士美術館

葛飾北斎「北斎漫画 八編 - 無礼講」

葛飾北斎「北斎漫画 八編 – 無礼講」
1814〜1878年/個人蔵
参照:浦上コレクション 北斎漫画ー驚異の眼・驚異の筆ー | 広島県立美術館

神奈川沖浪裏は誰もが見たことあるものだと思うけど、版画集「冨嶽三十六景」の中に入っている一枚なんだな!

「北斎」はどんな人?

北斎がどんな人物だったか解説するわね。

かなりの奇人というのは風の噂で聞いたことがあるけれども……。笑

生涯で93回も引っ越した

北斎は生涯で93回も引っ越しをおこなった「引っ越し魔」と言われているわ。

きゅ、93回?!
なんでそんな引っ越しをしたんだ?

一説によると、とにかく掃除が苦手だった北斎は、住んでいる家がゴミ屋敷になると引っ越していたみたいね。

掃除より引っ越しの方が面倒そうだけどな!!

それくらい掃除をしたくなかったんでしょうね……。
(わたしには理解できないわ……!)

あと実を言うと、もう一つ理由があって。
それは、

死ぬまでに100回引っ越しをするのが目標

だったから。

う〜ん……、ちょっと意味が分からないぜ……!

ペンネームも30回変えている

さらに、北斎は画号(ペンネーム)も30回変えているわ。

え?!

葛飾北斎も一つの画号だけど、他にも、

・天狗堂熱鉄
・月痴老人
・百姓八右衛門
・画狂老人卍


といった、現代人のわたしたちが見ても、ちょっとふざけているのが分かる画号がたくさんあったのよ。

ちなみに、どうして画号をそんなに変えていたんだ?

まず、画風を変えごとに画号を変えていたというのがあるわね。

あと、どの流派の門下生になってもその傲慢な態度や奇人っぷりから馴染めず、さまざまな流派をさすらっていたことも理由の一つかも。

さらに北斎は、富や名声にまったく興味が無く、自分の画号を弟子たちに簡単に売っていたようね。

これだけ聞いていると、完全にただのヤバい人……。

三女・応為の名付けエピソード

もうお腹いっぱいかもしれないけど(笑)、北斎の個性的なエピソードはまだまだあるわ。

なんだかんだ気になるぜ。笑

北斎は人生で二度結婚していて、合計6人の子供をもうけているわ。

そのうちの後妻との間に生まれた三女・応為(本名はお栄)は、父同様に画家としての才能を開花させて活躍したのよ。

そもそもこれだけ破天荒でいながら、子供6人いたのは驚きだぜ……!

この「応為」という画号は、
北斎が普段から「おーい!」と呼んでいたことからつけられた
という逸話があるわ。

いや、適当すぎやろ?!

まぁ、あくまで逸話よ。

ただ、口が悪かった北斎は応為のことをその容貌から
アゴ
と呼んでいたのは事実だわ。

娘になんてこと言うんだ!
ただの悪口じゃねぇか!!

死ぬまで保ち続けたプロ意識

ここまでである程度伝わったと思うけど、

・お金に無頓着でいつも借金だらけ
・家はいつもゴミ屋敷
・形式ばったものが嫌いで誰相手でもそっけない
・外を出歩くとぶつぶつと独り言を言う


という北斎は、傍から見たらただのおかしな人だわ。

(ルネちゃん、いつになくはっきり言うな……。笑)

でも、画家としてのプロ意識はものすごく高かったの。

北斎は88歳と長生きだったのだけど、その最期の瞬間も、

「天が、あと10年だけ命を延ばしてくれれば……。
あと5年あれば、本当の絵描きになれるだろう」


と叫んだと言われているわ。

すごいな……。

さらにこれは北斎の弟子・露木為一が残したエピソード。
(会話形式でいくわね)

露木「先生のところに入門してもう長いですが、まだ自在に描けません……」

応為「親父なんて子供のときから80いくつになるまで毎日描いているけど、この前なんか腕組みしたかと思うと『猫一匹すら描けねぇ』って涙を流して嘆いてるんだ。何事も「自分はまだまだだ」とヤケになるときが上達するときなんだよ!」

北斎「まったくそのとおり。そのとおりだ」

確かにプロ意識高いな!

けど、それ以上に気になったのが、応為が父ちゃんの思想をしっかり受け継いでいるってところだわ……!

ふふふ♪

なんにせよ、絵を描くことにかけては一切妥協をしなかった北斎は、どれだけ問題行動が多かったとはいえ巨匠であることに間違いないわね。

「北斎」の作品の特徴は?

次は、北斎の作品の特徴について解説するわね。

「ベロ藍」をいち早く取り入れた

北斎が活躍した時代は、ちょうどヨーロッパと文化の交流が起こり始めたころだったの。

このころヨーロッパから入ってきたのが、「プルシアン・ブルー」という人工塗料。

日本語では「ベロ藍」と呼ばれるこの塗料を、いち早く取り入れたのが北斎だったわ。

新しいものに躊躇せずに飛びつくのは、さすがだな!

当時、浮世絵で一般的に使われていた青色は、色が褪せやすかったり取り扱いづらかったりして、いまいちだったの。

でも、このベロ藍におかげで表現に幅が広がったわ。

なるほど、浮世絵を制作する上でもメリットがあったんだな。

とりわけ、人物画より風景画へ移行し、代表作・冨嶽三十六景でも、空や海の色でこのベロ藍を多用した北斎の青色は、
北斎ブルー
とも呼ばれているわね。

遠近法の魔術師

北斎が新しいものを取り入れるのが上手だったのは、ベロ藍以外のところにもあったわ。

それは「遠近法」よ。

遠近法!

北斎は、

・平行投影法
・一点透視図法

・零点透視図法

三つの遠近法を使いこなしていたの。

そもそも遠近法にそんな種類があったことを知らなかったぜ……!

平行投影法は日本の絵巻物でよく見られる、手前と奥の人物の大きさに差が無い描き方よ。

平行投影法の例
平行投影法の例。
手前の人物と奥の人物の大きさに差がなく、奥行きに現実味が無い。
(絵巻物「法然上人絵伝」)

これは北斎以外の絵師でもやっているな!

北斎がすごいのは、ヨーロッパから輸入した一点透視図法を取り入れているところ。

一点透視図法の例
一点透視図法の例。
中央にいるキリストの頭の位置が、ちょうど消失点となっている。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」)

一点透視図法は、幾何学に馴染みのない日本の画家には取り入れづらいものだったはず。

北斎にそれができた理由は、彼がデッサンの正確性に固執する数理的な思考の持ち主だったからかもしれないと言われているわ。

分かりやすく言うと、北斎は理系っぽい考え方をする人だったってことだな!

ちなみに、零点透視図法は、
・手前のものを大きく描く
・奥のものを小さく描く
で奥行きを出すやり方よ。

富士山をたくさん描いた理由

北斎の特徴といえば、モチーフにも特徴があるわね。

彼はよく富士山を描いたの。

代表作が冨嶽三十六景だし、確かに富士山をよく描いているイメージはあるな!

北斎は富士山が好きだったのか?

いえ、北斎が富士山を描いていたのは信仰心によるものだったの。

北斎は日蓮宗の一派である北辰妙見菩薩を信仰していたの。

それはどういう信仰だったんだ?

北辰信仰は、北極星や北斗七星を神格化して崇める信仰よ。

この北辰信仰は富士信仰とも結びついていたため、北斎は富士山を特別視していたの。

実は「北斎」という画号も北辰信仰から来ているのよ。

信仰心が厚かったんだなぁ。

「北斎」の作品はどこで見れる?

北斎の絵ってどこへ行けば見られるんだ?

東京都墨田区にある「すみだ北斎美術館」に北斎の作品はたくさんあるわ。

ここは2016年に開館したばかりの比較的新しい美術館ね。

北斎は生涯のほとんどを、現在の墨田区内で過ごしたこともあって、ゆかりのある美術館なのよ。

都内だからアクセスが良くていいな!

他には、長野県の小布施町にも北斎作品を展示している美術館「北斎館」があるわ。

小布施町にもゆかりがあるのか?

さっきも言ったようにずっと江戸で生活していた北斎だったんだけど、83歳のときに天保の改革があって、江戸で絵を描くことを制限されてしまったの。

そこで、北斎が新たな滞在地として選んだのが小布施町だったわ。

なるほどな〜。

あと、ゆかりがあるわけではないけど、東京の原宿にある「太田記念美術館」にも北斎の作品が所蔵されているわね。

ここは北斎だけでなく、さまざまな浮世絵を集めている美術館で、北斎の娘の応為の作品もあるのよ。

北斎と他の浮世絵師を比較したい人や、浮世絵全般が見たい人にはおすすめだな!

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